太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

1995年のデジタルピンボール

photo by JesseRad

1995年のデジタルピンボール

 最近はセガ・サターンをよく遊んでいる。1994年の年末に購入以来20年間近くやっているのかと考えると感慨深い。PS2やXBOX 360も持っているのだけど、結局はセガ・サターンをやっていることが多い。ゲームとしての割り切りがよいのだろう。

 そのなかでも未だにやっているのが『DIGITALPINBALL ラストグラディエーター』で、いわゆるピンボールゲームである。このピンボールゲームは本当に画期的で、リアルな筐体+拡張現実的にでてくるガイダンスやハードロックな音楽の相性が抜群でピンボールらしいピンボールを正しく楽しめるようになっている。


Digital Pinball: Last Gladiators [Saturn] by KAZe ...

ピンボールによって失うもの

 ちょうど村上春樹の『1973年のピンボール』が精神に影響を及ぼしていた頃だったし、とにかく僕の生活の殆んどはピンボールで埋め尽くされていた。デジタルピンボールの良いところであり、悪いところは――たいていの家庭用ゲームと同じように――山ほどの銅貨を使わなくてリプレイができることだ。取り返せないのは「貴重な時間」であり、「潰される暇」であり、または青春とでもいうべきものだった。

あなたがピンボール・マシーンから得るものは殆ど何もない。数値に置き換えられたプライドだけだ。
失うものは実にいっぱいある。歴代大統領の銅像が全部建てられるくらいの銅貨と、取り返すことのできぬ貴重な時間だ。
あなたがピンボール・マシンの前で孤独な消耗をつづけているあいだに、ある者はプルーストを読み続けているかもしれない。
またある者はドライブ・イン・シアターでガール・フレンドと『勇気ある追跡』を眺めながらヘビー・ペッティングに励んでいるかもしれない。
そして彼らは時代を洞察する作家となり、あるいは幸せな夫婦となるかもしれない。
しかし、ピンボール・マシンはあなたを何処にも連れて行きはしない。リプレイのランプを灯すだけだ。リプレイ、リプレイ、リプレイ……、
まるでピンボール・ゲームそのもがある永劫性を目指しているようにさえ思えてくる。

1973年のピンボール (講談社文庫)

1973年のピンボール (講談社文庫)

 僕は殆んどのことにこのような態度で臨んできたのだと思う。どこにも行けないものに機会費用を集中的に投じて、結果としてアイデンティティを拡散していく。何者にもなれないまま、リプレイ・リプレイ・リプレイ。

 鍵束の中からぴったりの鍵を見つけるのか、削り合ってぴったりにするのか、その止揚か。そんなことを悩んでいるうちに若作りは破綻する。壊れゆく運命にあった22年前のスペースシップやダムに弔われた配電盤とは違って、デジタル化されたピンボールには永劫性があるのかもしれないけれど、それをプレイする人間に永劫性はないし、プレイされないデジタルピンボールからもまた永劫性が剥ぎ取られる。だから、せめてこのリプレイは死への過程を賭け金にしている事を意識していきたいとも思うのだ。

リプレイ・リプレイ・リプレイ

 リプレイ・リプレイ・リプレイ。いつかは終わるリプレイ。次はないかもしれないリプレイ。いくつかの永続性を獲得する方法はあって、例えば後進に譲ったり、子供を育てること。心にしみこむ文章もミームとして残るかもしれない。

 でもリプレイ回数を増やすボーナスばかり狙ってしまってもスコアが伸びない。あくまで1ボールで稼ぎ切ったあとのエクストラボールだから有効なのである。繰り返せるから雑にしようとすればそのリプレイは無駄に終わる。「丁寧に暮らす」とはそれに対する抵抗のようなものなのだろう。

1973年のピンボール (講談社文庫)

1973年のピンボール (講談社文庫)