太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

坂口恭平『MY HOUSE』『モバイルハウスのつくりかた』〜所有の揺らぎの中を生きる

MY HOUSE [Blu-ray]

坂口恭平が気になる

 坂口恭平がわたし、気になります! 佐々木俊尚が「ゼロから始める都市型狩猟採集生活」をキュレーションしていたことから気になりはじめて「段ボールハウスで見る夢―新宿ホームレス物語」をはじめとして貧困問題や車中泊、ノマドなどを下衆な娯楽的要素を含めて摂取していたため、比較的すんなりと受け入れていた。私自身も貧乏旅行というコンテキストではあるもののドヤ街暮らしやネカフェ難民ごっこをしていて親和性が高かったという事情もたる。

 そんな距離感のなか、坂口恭平が2012年からメディアに「新政府初代内閣総理大臣」として急速に取り上げられるようになって、正直に言えば少々困惑していた。速水健朗がラジオで「オウム2.0」と言っていたが、大澤真幸の「増補 虚構の時代の果て (ちくま学芸文庫)」などを読んでいて感じるそれとの相似性については思うところがあるし、「そうではない」と理解できているからこそ無自覚に危険域に入り込みやすいのではないかと危惧しているところがある。

MY HOUSE [DVD]

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坂口恭平/モバイルハウスの作り方 【DVD】

坂口恭平/モバイルハウスの作り方 【DVD】

 モバイルハウスから一貫した「パフォーマンスアート」であるからこそ、アイロニカルであっても没入すべきでないと今のところは考えている。とはいえ積読を崩すきっかけとなったし、話が通じやすくなったり、映画が公開されてよかったと思うアンビバレンツな感情もある。かような状況で、坂口恭平関連の映画を続けて観てきたので思うところを書く。

作品解説

 『MY HOUSE [DVD]』はホームレスのを題材にしたフィクションであり、ホームレスの日常が描かれるのに並行して典型的な「幸せな家庭」が崩壊していき、「ホームレス狩り」という交差点を迎えるまでの様子が全編モノクロで淡々と描かれていく。『TOKYO 0円ハウス 0円生活 (河出文庫)』のTIPSや楽しさにニヤリとしながらも、簡単に死を迎えてしまう怜悧さもある。

 これに対して『坂口恭平/モバイルハウスの作り方 【DVD】』はモバイルハウスのドキュメンタリーであり、ホームレスの方々と話ながらモバイルハウスを作るまでの試行錯誤や、ワークショップの様子などが描かれる。モバイルハウスとは、車輪を付けた簡易宿泊設備のことで、現行法だと「軽車両」として扱われるため、不動産扱いにならない。本当に移動できるかはあまり重要でなくて、住宅ローンや固定資産税から逃れるためのハックである。

 どちらも、家の所有に固執しすぎること、固執しすぎないことの両面が描かれる。どちらがよいという事ではないのだけと、常識を揺るがす効果のためにホームレス側の視点がイキイキと描かれる側面はある。

安全に痛いシミュレーション

 宇野常寛は自己反省には「安全に痛い」と「ほんとうに痛い」があり、「安全に痛い」だけのものを「ほんとうに痛い」ものと僭称して自己反省のパフォーマンスをしているとゼロ年代のセカイ系やノスタルジー作品を批判していた。それは自覚的に「安全に痛い」を選択した場合であっても一定の範囲では正しい効果が世間的にあったということを認めているという事の証左でもある。

 その上で「安全に痛い」に過ぎないことであると自覚できているのなら、それを避けるための過剰投資は必要ないどころか、対価を見込んで積極的にリスクテイク可能な案件であると見做すことができる。この事について「ほんとうに痛い」を「危険に痛い」と見做して「安全に痛い」とともに4象限化すると以下のようになり「安全に痛くない」と「危険に痛くない」という事象が浮き上がってくる。

 作品の元となっている鈴木正三氏や船越ロビンソン氏は、明晰な頭脳とポリシーをもっているうえに生存バイアスが効いており、彼ら「都市型狩猟採集民」の様式は「安全に痛くない」部分が強調される。彼らは非常に生き生きとしていて、普通に生活していたらまず気がつかない事に気づいており、工夫の固まりで楽しいというオルタナティブとしての強度を持っている。「奇異の目で見られる」「身分証明書がないからできない事がある」という程度のことが「安全に痛い」こととして描かれているが、だからこそ表面的にはバランスが取れて自分にもできるように思えてしまう。これはニートやノマド礼賛などについても同じような構図がある。「確かに嫌だけど、それによって死ぬ事はないな」というオルタナティブはシュミラクルな強度の信頼感を逆説的に演出する。

所有の揺らぎこそが「危険に痛い」こと

 しかし、実際的にホームレスになれば貧困ビジネス、宗教、借金、酒、麻薬などの「危険に痛くない」も多い。言うまでもなく「危険で痛い」は深刻である。比較的牧歌的に描かれている「MY HOUSE」においても放火や襲撃などがありうるものとして描かれているし、ホームレスのルポを読めば死亡報告に事欠かない。ホームレスとは文字通り「家を持たざる者」であるのだが、そのために過剰に晒されたあらゆる事物の「所有」までもが揺らいでいく。

 『隅田川のエジソン (幻冬舎文庫 さ 33-1)」は公園で寝た時に全財産が入った鞄を盗まれるところから始まるし、「MY HOUSE」でも苦労して集めた空き缶の山を盗まれる。その流れのなかで理不尽に描かれる彼らの死によって誰もが「持つ者」として自明に主張できるはずの身体そのものの「所有」すら揺らいでいく。この「自身の身体の所有権を侵しえるもの」こそが「危険に痛い/痛くない」ものであり、睡眠や酩酊によって自意識からの所有が揺らぎかねない自身の身体が「私の家」に既に「所有」されていてよかったと安堵する一方で、自己再生産コストのために自由を絡め取られて他者に自身の身体を「所有」されていた事に気付く。住宅ローンがあるからとブラック企業を辞められないのであれば、どちらが所有されているのだか分からない。

モバイルハウスと「所有」

 モバイルハウスは軽車両として定義されることによって不動産としての「所有」をあえて主張しないことで手続きやコストを削減する。ホームレスは「所有」権が放棄された「都市の幸」を拾って「所有」する。『MY HOUSE』の子供は親や教育システムからの「所有」から逃れるために暴走する。労働者は住宅ローンを借りて家に「所有」され、ライスワークを提供する資本家からも「所有」される。現代に生きる我々は「危険に痛くない」ことを繰り返して他者に「所有」されていく。つまりこれらの映画は一貫して「所有」を巡る物語なのであると言えよう。

 坂口恭平自身もアート作品や原稿でそれなりの収入があるために「新政府内閣総理大臣」として表出する部分では気前よく振舞えるという意味では、ライスワークがあるからライフワークではラディカルに振舞えるという話であり、まさに「安全に痛い」パフォーマンスである。そしてライスワークの比率を下げるために「TOKYO 0円ハウス 0円生活 (河出文庫)」とあるように自己の再生産コストを極端に削減しているのがホームレスであり、それは自身の身体の「所有」を取り戻して「自由」に振舞うためのものでもある。

 それらの「所有」の揺らぎにおいて彼らの奇妙とも思える生態から「安全に痛い/痛くない」を抽出して培養することで「危険に痛い/痛くない」から逃れられるのではないかという思考を促すラディカルなパフォーマンスアートこそが坂口恭平の持ち味であると思う。故に自分の頭で考えるための道具としてのみ利用するのだ。つまり私は彼にも「所有」されないようにするのである。

「痛み」のみの除去

 中島義道が「人生を“半分”降りる―哲学的生き方のすすめ (新潮OH!文庫)」などで論じていた「あるべき論」からの離脱をして「精神の自由」を得ようと思うと得てして「良い人」や「有能な人」としての評価からは溢れおちるという「あるべき論」。これは「「良い人」や「有能な人」として評価されなくて良い、たかが「安全に痛い」ことであるのだし、こう思えば痛くない」という価値観を逆説的に植えつけるものである。生存バイアスが掛かった人に対して「お前は深刻に痛くないフリをしているんだろう」としても無駄なので、現在の社会制度上で他者に適用した場合において破滅に向かわない実際的な強度があるのかという事を問題としている。だからこそ「普通の人は嫌がるかもしれないけど、こう思えばこちらの方が合理的。現に私は成功している」は痛みの問題を先に潰すことによって無自覚的に危険が隠蔽される有害さがあり、オルタナティブなものは構造的にそうなりがちである。

 人は「痛み」の有無とその除去を中心に注目しがちであり、実際的な危険さについて無自覚的であったことに坂口恭平は気づかせる。「自身の身体の所有権を侵しえるもの」こそが「危険に痛い/痛くない」ものであると定義付けた場合において、「危険/安全に痛い」から逃れるために「私の家」に囚われた家族が住宅ローンや世間体のために歪んでいく姿はまさに「危険に痛くない」そのものであり、「危険で痛い」ものから「痛さ」を中心に取り除こうとしてより別の危険に突っ込んでいく姿を浮かび上がらせている。これはノマドやアフィリエイターといったオルタナティブ系の議論でも逆説的に適用でき、会社生活の「危険/安全に痛い」を中心に取り除こうとして会社員を辞めると食えないという「危険」に絡め取られてマルチ商法やダンピング競争のコマとして「所有」されていたりという「危険に痛くない」道に突っ込んでいる。

 ブラック企業の宗教性とともに自己啓発の文脈でさえ「ニューソート」という宗教運動の流れを汲んでおり、ライフハックもその延長線上にある。思考のフレームワークを作るという事は、そのフレームワークに自己を全面的に「所有」させることである。ここで選択肢としてそれをやっていることを批判しているのではない、人格の相応のパーセンテージをそこに取られて、結果として「自身の身体の所有権」を別の何者かに預けてしまう。「ぼくたちの洗脳社会 (朝日文庫)」が展開されていく中でのアイロニーの問題である。

複合体を自身のために作ること

 その意味ではそれらのパフォーマンスをベタに受け取って動く人間がいる事のみを危惧している。かつて反原発界隈で「(どうせ止められないけど)明日止めろ」や「あえてバカに振る舞ってもらうために」みたいに留保をしつつ極論を言う姿が見られた。これは自身の安全を確保しながら、「あえて」を読み取れない馬鹿なお前が勝手に動いたというスキームで他者を鉄砲玉として「所有」しようとする試みである。それを読み取れない程度の人間に向けて導線設計するのは、その概念の強度を貶めることであり、問題が起これば「過激派」などと切断処理を行うのは二重に不誠実であろう。

 彼の芸術には宗教的な力があるが故に「ラディカルなパフォーマンスアートだからベタに取るな」ではなく、「ベタに取るからこそ宗旨への一致を問題とすべき」ではない考えている。オルタナティブの逆面から無駄なコンポジット化が生まれて単なる宗旨替えに過ぎないものを「自由」と呼んでしまう倒錯によって、あるコンポジットからあるコンポジットへの付け替えをしているだけであれば、彼の素晴らしい芸術が浮かび上がらせていたものを翳らせる。

 あえて「自由にしない自由」という選択肢についても認めざるをえないのであろうが、彼がライスワークを確保した上で意図的にラディカルに表出させたコンポジットに一致させていく作業をしても無駄であろし、それこそが宗旨に反しているであろう。つまり真摯な仏教徒には恐らく不評であろう「超訳 ブッダの言葉」を自分の既にある考えに役立ちそうなところだけを採取して自身に合うように培養すればよいのではないかというような話である。

ダンス・ダンス・ダンス

 これは坂口恭平が既存のテクストを自説の補強のために変形させていく態度とも一致する。まずは自分のためのコンポジットがまずあって、それに対して役立ちそうな物があればその整合性を点検して、必要があれば変形して受容するというプロセスを経るのが無からの製造技術を持たない一般人のためのDIYであると考えている。以上の例で前者であればハードウェア、後者であればソフトウェアであるわけだが、これを広げて人間の思考についても既存から一部分だけ抽出・培養して自己のコンポジットのために変形させて受容させる事によってグロテスクとも思える自己を形成していくべきであると考えている。そこで大きなコンポジットのままで付け替えを行うのも、個別に取り出しても自己のコンポジットとの整合性を点検せずに取り込むのも宗旨にも反しているであろうと思うのである。その意味で私は一貫して無神論者にしかなれないのであろうが、であるからこそ「厳密な一致」が生まれると危険なのである。

 人は誰かに「所有されない」ということが有りうるのだろうか。否。しかし絶対的な株主議決権を握らせない程度に複数の人や物に「所有」させることは出来る。そして<私>を「所有」してきた人々や物できた複数個のコミュニティの集合こそが、<私>そのものであり、誰に何%の「所有」させるのかは一定の範囲で自由である事に自覚的になるべきであろう。無知や意志力不足によって<私>を他者に収奪されぬようにする。お前が消えて喜ぶ者にお前のオールを任せるな*1

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*1:中島みゆき『宙船』より