太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

パラレルワールド化する森山未來とゾンビ映画 としての『苦役列車』

苦役列車(通常版)(Blu-ray Disc)

苦役列車

 映画は森山未來演じる貫多が風俗から出てくるところから始まる。主人公は19歳で舞台は昭和のバブル前。父親の性犯罪による家庭崩壊を経て中卒の日雇労働者となっている。いかにも薄汚くて、なけなしの金を酒と女につぎ込んで無一文になってしまう典型的なロクデナシである。

 それでいてギャンブルもせずに読書が好きで、どうせ家賃を踏み倒すのであればもっと良いところに住んでも関係ないのに月1万円を払わずに追い出される小心者の倫理があるところからキャラクターが浮きあがる。小説家ワナビ映画としては珍しくクライマックス近くまで「本を読むのが好き」という一点のみしか語られず、それもあくまで古本屋に勤める前田敦子とのフックとして起動しているのでワナビ感溢れる描写は少ない。

文化圏の厳密な一致と部分的な一致

 高良健吾演じる正二は上京したての専門学校生のアルバイトとして出会う。日雇い労働に充実感を得ていく一方で所詮はサブワークと割り切っており、サブカル彼女ができたりと学生生活の方が楽しくなっていく。前田敦子演じる康子については古本屋のアルバイトをしてて、80年代らしい体型の出にくい野暮ったい服装をして、超理論な申し出に案外弱い感じというのは地方から出てきた素朴な文化系女子のそれを思わせる。横溝正史好きなのが最高である。そういう配置であれば、正二と康子が仲良くなっての疎外感という展開だと思っていたところもあるが、そんな匂いはまったくなく、淡々と奇妙で泥臭くてサイテーな青春が進んでいく。

 正二から貫太に声を掛けたのは共感できる。所詮はサブワークと割り切っているのに過酷な肉体労働を敢えて選んで没入するのを選んでしまう感じ。そんなときに全面的にそこにリソースを割り振っている同年代に尊敬の念を抱いて、根本的な違いを感じながらも「この文化圏ではこれが正義なんだ」と割り切った人選で師匠を作ろうとする。師匠になる側もまんざらでもない。

 康子も遠距離の彼氏に不満があるわけでなく、あくまで読書好きの「友達」が欲しかったが故に、ただ一点の「読書が好き」という文化圏の重なりによってすべてをオミットした交渉が成立する。そこで挙動不審でロクデモない彼を拒絶すれば話が終わってしまうのであるが、文化圏の部分的な重なりを感じて二人は関わろうとする。しかし、そこから先にあるのは根本的な文化圏の違いへの失望と認知的不協和に苦しめられて至る破綻である。

文化圏の違いとスクールカースト

 この「文化圏の違い」についての考え方のひとつとして「スクールカースト」という概念がある。『教室内(スクール)カースト (光文社新書)』という本も出ている。

主に中学・高校で発生する「人気のヒエラルキー」。俗に「1軍・2軍・3軍」「イケメン・フツメン・キモメン(オタク)」「A・B・C」等と呼ばれるグループにクラスが分断され、グループ間交流がほとんど行われなくなる現象。未だ根強い影響力を持つインドの階級制度、「カースト制度」になぞらえて名付けられた。

 スクールカーストにおいては不特定多数からの人気を軸に「カースト」という言葉の通りにヒエラルキーが構築されているのであるが、これに関しては「評価経済」などの文脈から現在は違和感を感じてもいる。つまり有名人になろうとしない限りは匿名化された状態で数量化された「人気」はそこまで重要ではなくて、自分が認めて欲しいと思う相手から承認欲求の方が圧倒的に強く、その他の評価貨幣の蓄積は極めて相対的なものであると考えている人の方が多いのではないかと思う。ここで「自分を認めて欲しい」と思う相手の最たるものが「親友」「恋人」の候補である。自分が好きになれそうな相手から文化圏の部分的な重なりによって偶然にもたされた部分的な承認から過剰に期待して、ポテンシャル以上の一致と承認を求めてしまう行動に繋がっているのではないかと読み取れる。

島宇宙間の引力

 スクールカーストによる重要な示唆は「固定化圧力」「グループ間交流がほとんど行われなくなる現象」であり、個々の島宇宙での棲み分けというまさにゼロ年代的な現象によって必要以上の軋轢は生まれずに均衡するところにある。ましてや「中卒」の貫太はスクールカーストが本格展開される高校生活に存在すらしないカースト外の存在である。

 しかし貫太には「仕事」「読書」というスキルがあり、それぞれが彼らとの文化圏の一部に重なりがあったために好意を持っている上側の人々との交流を行うためのプロトコルの一致が起こり、セキュリティホールによる不正アクセスが可能となってしまったとも言える。しかしこの不正アクセスはいつか閉じられて失敗する可能性も高い。

ゾンビ映画 としての 「苦役列車」

 最近になって「意識低い系」という言葉が自分の周りだけで流行っている。意味としては「意識高い系」の逆で、意識が高いといわれる人々の奇妙な行動もできなければ、ヤンキーにもなりきれない無気力な人を指しているのであるが、それはそれで相手にすると困ってしまう事が多い。意識高い系の方がむしろヤンキー文化の延長であり、彼らの良いと思う事が類型的であるがために順を追って説明したり、事実提示によって比較的簡単に共感させたり屈服させることのできるプロトコルが存在する。しかし意識低い系に対してのそれは難しい。

 これはクオリアの違いということが考えられる。つまり「こうなったら楽しい」「これは困る」「それイイね!」といった意識が違いすぎており、それを自分の側に寄せるだけの倫理的義務も説得力もないし、こちらも相手の生き方がよいとは思わないから「HOW」の議論に辿り着くまでに疲れ果ててしまう。「WHAT」「WHY」については互いに「布教」の要素を伴っており、「仕事」「先生」「親友」「恋人」「家族」などのロールに対して互いに影響しあう事で精一杯である。故に「権限」「能力」「動機」のそれぞれの軸において不足しているためにお互いに棲み分けることが重要であるという結論となり、スクールカーストの「グループ間交流がほとんど行われなくなる現象」に近づいていきがちである。世の中には「宣教師」も多いのだけど、大抵は失敗する。

 貫太は正二をしきりに風俗などに連れていくが、これは彼を「親友」であると思っているからこそ「意識低い系」の文化圏に引き込もうとしているように見える。それは『SIREN: New Translation PLAYSTATION 3 the Best』というゲームにおいて屍人が「自分たちと同じような素晴らしい世界に招き入れる」という意思を持って襲ってくる事に似ている。その事を東京の学生生活にも慣れてリア充化してきた正二が感じることで認知的不協和が確信に変わり、「いつまでも俺に甘えるな!」という言葉となる。

哲学的ゾンビ

 クオリアが自分と違いすぎることによって理解不能な存在となりつつある事を目の当たりとした結果として、彼のクオリアが存在しないように錯覚しはじめる。クオリアが存在しないとは、つまり「哲学的ゾンビ」であり、それは康子に握手を求めて突然手を舐めるシーンなどからも明確化されはじめる。森山未來の演技する虚ろな瞳はゾンビ感を出すのに十分であり、他のレビューに書かれていた「主人公に共感できない」はむしろ誉め言葉であろう。この辺りの森山未來の演技力が素晴らしい。

哲学的ゾンビ(てつがくてきゾンビ、Philosophical Zombie、略: p-zombie) または単にゾンビとは、心の哲学で使われる言葉である。デイヴィッド・チャーマーズが1990年代にクオリアの説明に用いた思考実験であり心の哲学者たちの間で有名になった。

物理的化学的電気的反応としては、普通の人間と全く同じであるが、意識(クオリア)を全く持っていない人間と定義される。

哲学的ゾンビ - Wikipedia

文化圏パラレルワールドを駆ける森山未來

 森山未來が出演する映画は『モテキ Blu-ray豪華版(2枚組)』『ALWAYS 三丁目の夕日'64 Blu-ray通常版』『苦役列車(通常版) [DVD]』と続けて観て来ており、また『百万円と苦虫女 [DVD]』が大好きなのであるが、それぞれの作品に出演する森山未來についてやや強引に考えると『苦役列車』のそれぞれの登場人物に似ていることに気がつく。

作品 役柄 文化圏 対応する登場人物
苦役列車 中卒の日雇い労働者 意識低い系 貫太
モテキ サブカルWeb制作会社に勤める非モテ男子 サブカル糞野郎 正二 の彼女
ALWAYS 三丁目の夕日'64 医療ボランティアをしているモダンな青年医師 意識高い系 正二
百万円と苦虫女 花屋に勤める草食系男子 文化系男子 康子

 居酒屋で貫太が正二と下北サブカルクソ女と向かい合う姿はまさに各作品間の鼎談をも髣髴とさせる。モテキの幸世は下北沢のアパートに住んでナタリー編集部に勤めていたのであるが、それを演じていたはずの森山未來が「田舎者は世田谷区か杉並区に住みたがる」と鬼気迫った表情でサブカルをディスりはじめ、三丁目の夕日で六ちゃんとプラトニックな恋愛をしていた菊池に対して露骨な性をアピールしはじめる。そして康子はそこに不在であり、不在であるからこそ苦虫女のラスト「来るわけないか」を貫太に感じさせながら、本に書かれた小さな文字によって僅かな救済が行われる。

サ、サ、サブカル糞野郎ちゃうわ!

 この流れに「基本的には下北文化圏に生息していたけど、最近は阿佐ヶ谷LOFTが面白くて」などと言っていた東京生まれ東京育ちのはずの私までもが巻き込まれる。僕自身は「モテキ」が好きすぎて、服装を真似したり、999.9の黒縁眼鏡を掛けて下北沢を徘徊してヴィレヴァンで待ち合わせして都夏で呑んだりしていたサブカル糞野郎であり、墨さんのような元締めに搾取されるだけの文化圏にいる。

 故にリア充BBQともDQN呑み会とも意識低い系とも折り合いを取るのが難しくて、いつからか「文化圏の違い」を感じた人々に距離を置くようになったところがある。年に数回会うぐらいの関係であれば全く問題ないのだけど、頻度が高くなるほど辛くなって切断処理に至る事が多い。もちろん互いに言い分はあるだろうし、自分にも大いに問題があることは自覚している。しかし彼らとのクオリアが違いすぎることもまた認識している。

出会いと別れの部分的な重なり

 そんなときに映画のように「友達だったよな?」「恋人だったよな?」なんてことは聞けないし、それに反応されることもない。ただ互いに連絡を絶って、せいぜい悪口を言われていた事を漏れ伝えられたり、結婚したと風の噂で聞くぐらいである。そしてその結末にチクチクを感じながらも安堵する。だから彼らの破綻は自分にとっての大きな痛みを呼び起こすものである。

 11月の砂浜で貫太がブリーフ一丁になって海に入ったあとに彼らを寒くて冷たい海に引き込もうとする。 それを正二が躊躇しながらも「もー」と言いながらトランクスになって入っていく。そして「バカだなー」と笑いつつ眺めていた康子もついにシミーズになって入っていく。下着すら異なる文化圏に住んでいた三人が同じ海を共有して溶け合おうとする。それができていた時期は最高に幸せだったのに、いつのまにかまた棲み分けが起こってしまう。

 殴られて気を失ったときに観る幻視もあの時の海のことであり、しかし落とし穴に阻まれて海に入ることすら適わない。貫太はその残滓のみを抱いて孤独に小説を書き始める。友ナシ、金ナシ、女ナシは改善などされないのだ。ここで正二か康子のいずれが彼を飼いならしてしまうのは『ショーン・オブ・ザ・デッド』のラストになってしまうし、彼がどちらかを堕落させれば、まさに『ゾンビ』である。もちろん幸福な中間点だってありえるのだけど、この映画では「分断」が結論となった。どのような選択肢が幸福なのかについての正解はないので論じようとは思わない。それこそが文化圏の違いであるし、偶然的に一致した出会いと別れの蓄積こそが人生である。

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