太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

「戦わない生き方ー自分のために働くこと働かないこと定住しないこと」を自分のために考える

「ナリワイをつくる」「ニートの歩き方」イベント

 10/2に阿佐ヶ谷ロフトAであった「ナリワイをつくる」「ニートの歩き方」イベントに行ってきた。テーマは「戦わない生き方ー自分のために働くこと働かないこと定住しないこと」。phaさんはギークハウスとしての活動を中心に以前から興味があり、伊藤洋志さんは今回のイベントで知ったという状態であった。司会の米田智彦さんも存じあげなかったのであるが、ノマド生活をしているライターということであった。今回のテーマに「定住しないこと」が含まれているのが謎であったが、米田さんの事だったのであろうか。

 開演直前での入場となってしまったが最前列のテーブルが空いていたのでうまく潜り込めた。会場は満員であり、注目度の高さが伺えた。「戦わない生き方」がテーマということもあって、「非バトルタイプ」が第一のキーワードであり、ふたりとも経歴やエピソードで自慢しようと思えばできるわけだが、「だるい」「あまり売れると、叩かれる」みたいにかわしていく。彼らはパーソナル・ブランディングをしてグローバル競争の中で闘うみたいなバトルタイプ同士の殴り合いから降りてみたらどうなるか、どうしていけば良いのかという視点を提供しようとしていたのであろう。

phaさんと伊藤さん

 phaさんはとにかく自分の感覚を大切にしているように感じた。集団生活や時間にしばられるのが、ほんとうにしんどくてだるい。京都大学卒だったり、働いていた時期があったいうこともあり、「能力」と「権限」は十分にあるが「だるい」という「動機」の問題と見える。だから周りが自己責任論を言いたくなるのもわかるが、動機を維持できることを含めて能力であり、社会から付与された権限と考えることもできる。本人が自身の行動や気持ちの100%を決めているわけではなく、他動的に決ってくる部分があるなかで「だるい」という感覚を大切にせずに、大澤真幸が言う「辛くて然るべきの現実への逃避」としてのバトルを無理に始めようとすると個人にとっても社会にとっても悪い寄与しか行えない可能性が高い。かといって努力するなということでなくて、それぞれが持っている「だるい」を感じにくいものを淡々とやっていけば良いとのことである。「『だるい』と書くのすらだるいから『D』とだけ書く」というのは私も積極的に使っていきたい。

もう今年で4年間くらいシェアハウスやゲストハウスに住み続けている。一人暮らしではなくそういった共同生活的な家に住んでいると「人との交流が好きなんですね」と言われたりするのだが、実際は人と触れ合うのはそんなに好きではないし、むしろ苦手だ。基本的に単独行動が好きだし、人の集まっている場所に2、3時間もいると調子を崩してすぐに帰りたくなるし(そのせいで学校や会社には適応できなかった)、たくさん人と話すとそのあと2日くらい寝込むし、自分には一般的にみんな持っているような協調性とか社会性とかがかなり欠けていると思っている。では何故シェアハウスに住んでいるかというと、それは多分「人と直接コミュニケーションせずに孤独にならない」ということを目指しているからだ。

 またギークハウスというシェアハウスを運営されているのであるが、上記エントリを読むと考えている事が良く分かる。「シェア」について金銭的側面のみをクローズアップするのはズレていると思う。仕事をしないと他人との交流がなくなってしまいがちであり、それはそれでキツイのであるが、能動的にうごくのは「D」であるからいつでも居られる緩い場所があると良い。私自身も人と話す事自体は結構好きだし、誘われればほいほい付いていくが、自分から誘ったり話掛けたりということがあまり出来ないので共感できる。

 伊藤さんは、モンゴル武者修行ツアーや田舎でのパン作りなど、自分が楽しかったり、生きるためのちょっとしたスキル付きそうな小さな仕事を「ナリワイ」として複数運営していくという話であった。伊藤さんもphaさんと同じく京都大学卒業であり、ベンチャー企業勤めをするなかでバトルタイプとのやりとりに疲れてしまったようである。だから自身にとって「D」と思わない仕事は自分で作るしかないという発想に至ったという事であろう。話がとにかくぽんぽん飛んでスライドが進まないのであるが、それが面白かった。唐突に「人類の歴史からすると〜」みたいな話を出してくるのにちょっとシンパシーを感じる。

 金銭のみを対価にしようとすると、それ相応のクオリティが必要となるし、競合が明示化されてバトルになってしまいがちである。すると「やりたい事」だったはずのものが「もうかる事」「万人受けするもの」に他動的にすり替えられる状態となってしまい、それはサブタイトルにも書かれている「人生を盗まれない働き方」と相反する。故にトムソーヤーのペンキ塗りのように楽しいワークショップとして仕事をしてもらったり、自身の生存コストを下げるためのスキルが身に付けられたり、人間関係や楽しさといったものを金銭に加えた対価として得ようとすることで儲けをそこまで考えないメソッドを使う。「従業員」に対してこれをやると「やりがい搾取」と言われて叩かれがちであるがワークショップを求めるお客さんに対してやる分にはむしろ喜ばれる。

「やりがい」をハックする

 「時間と場所」を区切ることでワークとライフを分断してきたわけだが、時間と場所に縛られない働き方によって、家事や遊びや子育てをしながら働くというワークとライフが混ぜ込みを可能とする選択肢がある。これを進めて、よりライフの濃度を高めためものが「ナリワイ」であると言えよう。単純に余裕が多いというわけではなく、ライフ側をより良くする方向性と合致させている事が重要である。

 床張りワークショップやブロック塀壊しについては非常に示唆的であった。現代社会において最大の支出が「住」であるからハックの「やりがい」があることについてはモバイルハウスであったり、シェアハウスであったりというところでも触れられている。日本の空き家は全体で13.1%、田舎などでは20%を超えていることも珍しくない。このような空き家は床が湿気でダメになっていることが多く、そのままでは住むことができないが、非常に安価に貸してもらえる事も多い。それでもリノベーションを業者に頼めば高価な金銭が必要となってしまうから、床張りをワークショップとして素人ながら行ってDIYする。

 モバイルハウスではDIYで車輪のついた小さな家を3万円で建てた上に「軽車両」とすることで税制からも逃れるみたいな高度なハックをしており、魅力的ではあるが万人向けではなかった。これに対して伊藤さんは、もっとプリミティブに床を張ったり、ブロック塀を壊すところからスタートする。「ベルリンの壁を壊したのは人間の本能として楽しかったからではないか」という話が面白かった。ふたりともプレゼンというよりも、どんどん横道に逸れていく会話が多くて、米田さんの司会も大変だったのではないかと思うけれど、その感じが凄く面白かった。「くそだるい」缶バッチも手に入れたので鞄に付けて自己主張していきたいと思った。

震災とバトルタイプの憂鬱

 震災の時に米田さんが伊藤さんのシェアハウスに泊まって薄いカレーを食べたみたいな導入から始まったが、良くも悪くも震災を機に坂口恭平を始めとしたオルタナティブな生き方を模索している彼らへのスポットライトがあたるようになったと思う。オルタナティブを標榜される人たちに共通するのが「辛くて然るべきの現実への逃避」はだるいから回避したいということである。坂口恭平のいう匿名レイヤーで金銭のみのやり取りばかりしていると、エンタープライズとしての<私>とステークホルダーとしての<私>同士のやり取りまで匿名レイヤーに持ちこもうとしてしまいがちであった。

 匿名レイヤーでのコミュニケーションは緊張の連続であるし、それなりの服を来て、髭や髪を整え、通勤可能な部屋を借り、客先の呑み会に出たりする必要性よって最低限の維持コストも割高になりがちである。イベントや友人との会合に行けなくなったりもしてストレスも溜まる。自分がそうしたいと思っていなくても、他動的に決められてしまう中で「D」を抑えていくごとにMPが消費されてしまう。ここで消費されたMPを回復するために高価な物を買ったり、伊藤さんであればハーゲンダッツを毎日食べるみたいに身体に良くないものを飲食しつづけるといった行動に向いやすく、二重の生存コストが掛かってしまうし、それで健康を取り戻したり、幸福を感じられるかも微妙である。

「優しい」ブラック企業だったとしたら

 そのような前提がありながらも、本質的な成果とは幾分は直交しつつも様々な維持コストを前提として社畜の給与収入は成立しており、ノンワーキング・リッチを許容できるほど豊かとはいえない我々の世代の大抵の労働者はマルクスの言う「疎外」とバトルを続けるか、ドロップアウトして非バトルを貫くかの揺らぎの中にいるといえる。エンタープライズとのしての<私>がホワイト企業であるほど、ステークホルダーとしての<私>に対して高価な物や体験を与えようと「健全な努力」するために、資本主義レイヤーでの激しいバトルに身を置くようになる。それによって、従業員たるステークホルダーとしての<私>にはさらなる劇薬が必要になってしまうというのに。

 phaさんはドロップアウトした上で、それでも大丈夫なように支出を減らしたり、クラウドファンディングでお金や物を貰ったり、安くて楽しい暇つぶしの手段を探す。伊藤さんは「ナリワイ」によって自分にとってストレスがかかり難い仕事を作り、また支出を減らすためのスキルや成果も「ナリワイ」の中で得ようとする。エンタープライズとしての<私>が良い意味でのブラック企業であるから、バイト代は最低賃金割ってるけど、スキルが付いて友達ができて三食昼寝付きみたいな待遇をステークホルダーとしての<私>に提示しようとする。どちらか幸福なのかについて一概には言えないが、<私>同士の取引にコストが掛かりすぎていたのではないかという事は言えるだろう。

自分に当てはめてみると

 phaさんが京大を卒業して、会社勤めもしていた上でにニートになったのであるが、「会社に入ってみれば、できないということもはっきり分かる」というのが「ありえたかもしれない自分」を枝刈りすることであり、オルタナティブに迷いなく没入できる理由である。ここで私に視点を移すと、現在はなんとか社畜ができており「ニートになってみれば、できないということもはっきり分かる」をしてしまうと、後がないのが怖いので保留している。ナリワイは性格的にだるいから無理。だせぇ、要は勇気がないんでしょ。でも、そうやって無理に変えていこうとするのもバトルタイプであり、本当にソリューションが必要なのかは微妙だとも感じている。ソリューションを点検するという幻想のソリューションは、それはそれで阿片としての効果はあるし。

 今のところは折衷案として社畜を維持しながら家賃4万のところに住んで、5千円のスーツ来て、紙パック焼酎を呑んでボンクラ大学生感覚のまま三十路になろうとしている。「モンスター・トーナメント」という狼男やフランケンシュタインがプロレスをするボンクラ映画を観たり、友人と呑んでマンガ喫茶で泊まったら携帯を紛失していた週末を過ごした一方で、後輩は家族で沖縄旅行を満喫したりしていて、どこでここまでの差が付いたのか、慢心、環境の違い。その一方で自由度の違いという観点から考えると、結婚も維持コストの増加や人間関係の固定化によるバトルを引き起こしかねないと思っているところがある。

定住革命の革命と「建てる」「住まう」「考える」ふたたび

 伊藤さんの「仕事が人間と人間の媒介となる。それが楽しい」という言葉が印象的であった。phaさんはシェアハウス、伊東さんはナリワイという、それぞれの方法で低コストに「心地良い人間関係や住居」を手に入れて、バトルを回避する方法を模索している。これはノマドのいう「時間と場所に縛られない」からむしろ回帰しており、遊動から定住革命が起こる事で発生したと言われる弊害について、遊動化して取り戻すのではなくて、定住の仕方を変えるという定住革命の革命を模索していると言える。

 パスカルの言う「部屋でじっとしてられない」欲望の原因に対する欲望の対象は「兎狩り」から、現代社会においては通信機器では満たせない解像度の高い「コミュニケーション」を狩る事に変わったと私は思うのであるが、シェアハウスは「コミュニケーション」を「貯蔵」できるから「部屋でじっとしていられる」という定住革命の革命が起こっている。ガチの遊動によるノマドよりも、定住を前提としているが故にサードプレイスを求めるノマド(笑)よりも動く必要性が低いから無駄なコストが掛からない。コミュニケーションを狩るためにいちいち外にいくのは「D」である。非バトルタイプだし。

 バートランド・ラッセルは「幸福論」において二十世紀初頭のヨーロッパにおいて既に多くことが成し遂げられてしまったが故に現代の若者は不幸である、というような事を書いている。資本主義の流儀でバトルしていくのは一方では予定調和的でもあって、ある意味ではひどく退屈である。だからハイデガーのいう「建てる、住まう、考える」を実践するために自分の見える範囲で住居や人との新しい関係の構築を模索する。それは彼らの考えを取り込みつつも自分独自にカスタマイズしたキメラとなるだろう。例えば実家というシェアハウスに戻ったら実費換算しても1日数百円の食費や光熱費しか使っていない自分にとって、オルタナティブな家を新たに用意する必要性をあまり考えていない。あるものは利用すれば良い。彼らの考えを取り込みつつ、自分にとって「だるい」を感じない生き方を建てて、住まい、考えていこうと思ったのでした。

ニートの歩き方 ――お金がなくても楽しく暮らすためのインターネット活用法

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