太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

関係の無い事に興味を持てないからロールプレイ型の感情移入が必要

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photo by cammy♥claudia

今週のお題「ひな祭り」

 ひな祭りについて何かを意識したことがない自分にとって非常に難しいお題ですが、あまり結論を考えずに徒然と書いてみます。自分はひな祭りに限らず、いわゆる女子文脈にかなり疎いところがあります。「自分磨き(笑)」「女子会」「スイーツ」「スピリチュアル」などと言ったバズワードは分かるのですが、個別具体的に語られた中身について十分なサンプル数がありませんし、それを積極的に探そうとも思いません。

 これはいわゆる「女子文脈」への興味が薄いことから起こっているのだろうと思ったのですが、例えばバレンタインであれば、あくまで主役は女子であっても、「貰える/貰えない自己」という当事者性意識が多少はあるために、そこに至る文脈を理解しようとはしていました。またスキンケア用品は女性向けの物を使ったり、料理本や少女漫画も大好きです。

ひな祭りに興味がないのは「自分には関係がないから」?

 ひな祭りに興味がないのは「自分には関係がないから」という意識が先に来て、自分には関係がないから調べない、調べないから中身を知らず、やはり自分には関係がないという再帰的な定義付けが行われているからであると考えています。

 これはスキンケアや料理でも同様だったのですが、ある時期に一度調べてみた上で男でも必要だったり、楽しい事であるという定義付けが自分の中で変更された瞬間に、さらに調べるモチベーションが湧き、知識を得るごとに自身との関係性が強くなっていくということが再帰的に起こったのだと思います。

関係の相互作用とシステムシンキング

 ところで業務分析の手法として、「システムシンキング」というものがあります。これは要素同士の因果関係をグラフとして認識して、時系列でどのような変化が起こっていくのかと考えるためのものです。要するに「バタフライ・エフェクト」や「風が吹けば桶屋が儲かる」などと言われるものについて業務上の関係性で考えるためのものです。

システムズシンキング(Systems thinking)とは、 物事をシステムとして捉え、その要素間の因果関係をグラフとして表し、その構造を利用して振舞の特徴把握や定性的な分析を行う考え方。 システムの各要素は、環境やシステムの他の要素から分離した場合、異なる振る舞いを見せるという前提に基づく。 全体論的なシステム観を持ち、デカルトの還元主義と相対する考え。


システムシンキングでは、全体のシステムを構成する要素間のつながりと相互作用に注目し、その上で、全体の振る舞いに洞察を与える。 全ての人間活動は開放系であり、それゆえ、環境からの影響を受ける、という考えに基づく。


システムシンキングでは、複雑系において、出来事は距離と時間によって区別され、 小さな種となる出来事がシステムにおける大きな変化へとつながりうる。 ある領域での変化が、別の領域で逆向きの変化をもたらすこともある。 従って、縦割りの思考の弊害をさけるため、全てのレベルでの有機的なつながりを強調する。


システムズシンキング - Wikipediaシステムズシンキング - Wikipedia

 自分に限って言えばこの考え方を暗黙的に使っているところがあり、それが自分とどのように関係するのかという事を考えた上で、互いに十分な寄与が行えないであろう要素については自身の思考からはずすという切断処理を行なってしまっている場合が多いです。

 「自分に関係がないことには興味が薄い」と考えると、プロ野球やオリンピックなどを観るという習慣が私にはないという事にも説明が付きやすいです。身体を動かす事自体は結構好きなのですが、なんらかの競技をするわけではないので、プレイの参考にしようという動機も起こりません。『最強伝説黒沢』でワールドカップに対して黒沢が独白する「どんなに大がかりでもあれは他人事だ!他人の祭りだ」という感覚はすごくリアルです。ひな祭りも他人の祭りなのです。

 ただし、「関係ない」と判断したものについて因果ループ図などを書いて厳密に検証したわけではないし、全ての要素を認知できるわけでもないので、「実は関係していた」ものも多く残っているのだろうと思います。

 誰もが森羅万象を認識できるわけではありませんし、認識したものを思考に反映することもできません。むしろかなりの範囲で不適切な枝刈りが行われているのでしょうが、「一人インターネット」の隆盛によって本来的には「常識」に類するものまでが切断処理対象に入りやすい世の中になったのかもしれません。

インターネットではチャンネル争いが起こらない。それはもう、恐ろしいほどチャンネル争いが起こらない。パソコンもタブレットも個人向けの端末であって、複数名がチャンネル争いして使うものではない。なにより、ガラケーやスマートフォンといった端末は造りからして個人向けにつくられている。世の中の殆どの人は、インターネットで観るコンテンツを家族と共有しない。誰もが自分の端末をスタンドアロンに覗き込んで、自分の観たいコンテンツ・followしたいアカウントを眺めている世界。コンフリクトは無いけれども、団欒も無い。「一人インターネット」の普及によって、私達は遠くの誰かと細く繋がるようになったと同時に、隣のソファに座っている人とは繋がりにくくなった。


関係無いことに関係するためのロールプレイ

 その一方で自身の寄与とは全く関係がないのにもかかわらず、映画や演劇などは好きですし、その延長でプロレスも好きなのですが、これはどうなのでしょうか。ここで起こっているのは「なりきり」なのかもしれないと思っています。私は登場人物の誰かに感情移入をする傾向が強く、登場人物の誰かに感情移入できるかが自分にとっての良い作品のポイントになっている事は否定できません。幼い見方ではあると思います。

 しかし、ここで重要なのは「私がどうするか」ではなく、「彼/彼女の状況や思考形式ならこうする」という形の感情移入です。分人主義について『ソーシャルメディア時代における「本当の私」はどこにある?〜平野啓一郎『私とは何か――「個人」から「分人」へ』 - 太陽がまぶしかったから』で書いたのですが、自身の分人的な人格が、物語上の仮想的な「役割」に応じて自然と立ち上がってきて、その人格が物語に感情移入しているという構造です。他者に感情移入をする他者をロールプレイするという事です。

 そして、このロールプレイと実際のストーリー上で取られた動作が一致したかという「答え合わせ」に成功したか否かという事が、私にとって良い作品であるかという判断基準になっているのではないかと思います。その場合において、私はかの作品の登場人物の演者としての関係性が持てるからです。

 このことについては新城カズマが指摘した「類型化」という離れ業も関係しています。つまり先に、ツンデレならツンデレという類型を提示することによって「彼女が今後行うであろう行動の確率分布」を物語の初期から予め提示する事が可能となったという事です。これを用いることで、正解率を飛躍的に上げる事ができるようになりました。

 その一方で、あまりに正解率が上がるというマンネリによって理屈のある裏切りについては歓迎するようになりました。しかし、これも「後からの感情移入」に成功することで、良い作品であったという再定義が行われる事になります。

関係ないことに関係するための関係妄想

 また実際には何も関係がなかったとしても関係を妄想することがあります。これは「自分に関係のある事しか興味がない」のだから「興味がある言動や行動は自分に関係があるはず」という倒錯が起こっているという事です。

 本来的には自分に関係がない言動や行動について、その内容に先立って興味がある状態になるのは、それを行う主体自体に対して予め興味がある場合というパターンが一番多いと思います。好きってことさ。

 そして、この状態においての確率分布は安定しない方がよいのかもしれません。むしろ、こちらの想定外の行動が行われることで、こちらでは認知できなかった変数の重要度を浮き上がらせ、それが成長やよりよい未来に繋がるのではないかとも思います。関係妄想そのものは表明すべきではないけれど。

関係妄想の幻想強度を強化する「六次の隔たり」

 関係妄想について、現在はややこしい状態にあります。つまり、ソーシャルメディア等によって個々人の発言は拡散します。間接的な知り合いとまでは言わないまでも、一度ネットや誰かに表明したものは検索や知人等を通じて相手に届く事はありえるし、それについて無意識的にアンサーしている可能性も、それなりにはあるという事です。

六次の隔たり(ろくじのへだたり、Six Degrees of Separation)とは、人は自分の知り合いを6人以上介すと世界中の人々と間接的な知り合いになれる、という仮説で、多くの人数からなる世界が比較的少ない人数を介して繋がるスモール・ワールド現象の一例とされる。SNSに代表されるいくつかのネットワークサービスはこの仮説が下地になっている。


この仮説は後述のスタンレー・ミルグラムの実験を裏づけとして大きく広まったが、それ以前から文学作品などを通じて古くから知られていた。この仮説を描いた最古の作品はハンガリーの文学者フリジェシュ・カリンティによる1929年の小説『鎖』とされているが、「六次の隔たり」という名称は、劇作家ジョン・グエアの戯曲に由来する。この戯曲は後に『私に近い6人の他人』(原題:Six Degrees of Separation)として映画化された。


六次の隔たり - Wikipedia六次の隔たり - Wikipedia

ひな祭りと関係するために

 六次の隔たりは人に絞ったの話ですが、これは私には関係ないものとして切断処理をしていた概念についても間接的に関係してた話にも応用できます。そして、それは好きになった誰かを介して知る事になるのでしょう。

 つまり、ひな祭りと私の関係の道筋を知って興味が湧くのは、きっと娘でも出来た時なのではないかという事です。その確率分布については絶望的だけれども。

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