太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

近藤麻理恵『人生がときめく片づけの魔法』〜心に「劇的な回心」を引き起こす乙女の絶技に人生が片づけられる

人生がときめく片づけの魔法

人生がときめく「片づけ」の再考

 読書をしたり、思索をしたり、ダイエットや自己の再生産コストの削減等々の要素を冷静に考えると家に引き篭っていた方が有利という認識があるのですが、そのように舵を取ると家中の居心地を良くすることの効用が上がっていきます。

 居心地を考えていくと「書斎」の構築がひとつのゴールであると思うのですが、その前に「片づけ」をしようと考えました。ぱっと見では散らかっているというほどではないのですが、箱の中に色々な物が入れぱなしになっていたり、二度と着ないような服が衣装ケースに眠っていたりしていて淀んでいる感覚があります。本についても一生かけても読み切れないという諦観しつつも手放せませんでした。

 「片づけ」とは部屋の中に「偏り」を発生させて複雑性を縮減するための作業であると考えています。その意味では「偏り」まではかなり出来ているので、何かが必要になった時に「この辺を探せばよい」という枝刈りまでは出来ています。でも、そこからは収納箱をひっくり返して探さなければいけませんし、それで見つけても規格が違ったり、情報が古かったり、汚れたりしていて結局は買い直すみたいな事が多い事に気づきました。そうなると、そもそも探す行為自体が無駄だったという事になりますし、それらのモノが部屋内の複雑性を上げるためだけに寄与してしまってという両面の無駄があります。

 モノと自身との関係性は様々な側面から劣化する力の方が強いと思います。それでも「いつか役立つことがあるかもしれない」「いつかまた使えるかもしれない」と箱の中にしまってきました。しかし「いつか」は滅多に来ないですし、「いつか」がきたところで適合しない事のが多いわけです。なので貯蔵という行為自体への疑問が出てきました。

人生がときめく片づけの魔法

 そんな事を考えている時に『人生がときめく片づけの魔法』について思い出しました。出版された当時は話題になっていた事もあって、軽くななめ読みをしていたのですが、改めて読み直して実践することとしました。『人生がときめく片づけの魔法2』についてもkindleで読みました。、問題意識が強い時に読むと改めての発見が多いです。

 当時は女子向けの掃除本とスピリチュアルの相性の良さだったり、現状否定を是とするのは現状への不満を抱いている人が多いという現代社会の問題もあってみたいな感想だったのですが、それだけではありません。自身にも現状否定をしたいという側面があるのかもしれませんし、ダイエットと同じようにアイロニーを抱きつつも世界観に没入して身体を動かしていかないと仕方ないという諦観とポジティブの中間のような状況だから心に響いた所があるとも思います。ときめきたいにゃん。

 「片づけはマインドが9割」という確信が本書に書かれているのですが、生活改善についてはリワード設定による駆動が重要となってきます。そして片付けは「あるべき姿」が比較的明瞭なので、駆動が続く限りは方法論をさておいても漸近的発展が見込めます。なので「人生がときめく」というリワード設定もその程度の意味合いだと思っていましたが、彼女は後述の通り、かなり合理的にそれを引き起こそうともしています。

さっさと片付けを終わらせてください

 以下に著者自身の紹介動画があります。こんまりの顔や所作がもの凄く好みなので、脳内こんまりに罵倒されながら片づけると捗ります。1分14秒あたりの「さっさと片付けを終わらせてください!」にときめきます。


近藤麻理恵『人生がときめく片づけの魔法』が3分でわかる - YouTube

片づき続ける意志力

この本は、「一度片づけたら、絶対に元に戻らない方法」を書いた本です。

人生がときめく片づけの魔法

人生がときめく片づけの魔法

 動画でも「片づけは永遠に続くもの」と言うのは間違っていると断言していますが、本書では「リバウンドゼロ」を謳っています。これは「片づき続ける」ようになるからと理解しています。「片づけ続ける」ことと「片づき続ける」ことは違います。前者は常に能動的に片づける必要があり、後者は他律的に動かされていくということです。

 他律とは環境管理型権力による意志力の外部化です。意志力を自発的に発揮し続けなければいけない限り、どうしたってリバウンドする時が来てしまいます。「片づき続ける」状態になった場合には「片づける」という中間項は存在せず、「日々のメンテナンス」とでも言うべき状態になります。この状況を構築するための儀式が「片づけ祭り」です。

片づけ祭りの開催

 そして先にはっきりと書いておきますが、「片づけ祭り」は整理術であると同時に自身の人生をときめかせるために自己洗脳的な「式」を打つ行為であるため、一部のテクニックだけを利用してもあまり効果はないと考えています。「人生がときめく片づけの魔法」という題名は伊達じゃないです。

家の中を劇的に片づけると、その人の考え方や生き方、そして人生までが劇的に変わってしまうということです。


(中略)


「過去に片をつけた」から、その結果、人生で何が必要で何がいらないか、何をやるべきで何をやめるべきかが、はっきりとわかるようになるのです。


人生がときめく片づけの魔法

人生がときめく片づけの魔法

 この「式」において例えば靴下のたたみ方やスピリチュアルな説明などのディテールはアイロニーをヒューモアに緩和していくためのフレーバーでありながらも鋭利な実用性の両面を備えています。「式」には何時だってフレーバーが付き物ですが、それだけではないというのが本書やこんまり自身の魅力です。それは彼女の巫女として5年間働いていたという経歴や「神社のような空間を作りたい」という欲求から来ているものと推測されます。

片付け祭りとは

 片づけ祭りでは以下の二つの工程を行なうと記載されています。何度も強調されていますが、「捨ててから定位置を決める」です。同時にやっても逆順でもだめです。

  • モノを捨てるかどうか見極めること
  • モノの定位置を決めること


 以上について私なりの解釈すると、以下のような工程になります。

  • 自分で手にとって「ときめくモノ」または「必要なモノ」だけを残す
  • モノごとに「定位置」という設定をつくり、他律的にそこに戻していく
  • ちり・ほこり・しみ・カビといった汚染を除去するために「掃除」する


 これをウォーターフォール、つまり前工程が完全に完了してから後工程にいく流れで、一気呵成に行なう事が「劇的な回心」を起こすためのには不可欠です。「劇的な回心」とは、それまでの葛藤が一気に解消して新たな自我が生まれる体験の事です。聖書においては「明確な神秘」が描かれていますが、もう少し単純な話でもあると考えています。

 恋であったり、読書であったり、寿司であったり、仕事の成功であったり。同じ事が起こっていても風景が変わる体験はいくつかありますが、その中のひとつを引き起こす効果が片づけにもあり、本書ではかなり意図的にそれを狙っているところがあると読み解きました。

 繰り返しますが「片づけ祭り」は一気呵成である事が重要です。ダイエットにおいては無理な絶食などの「祭り」をやってしまっては健康を損ねてしまいますが、部屋は生物ではありません。アナロジーとして有用すぎるが故の錯誤だと思います。一気にやったら一気に元に戻るなどということは物理的にありえませんし、むしろ片付いていれば戻す意識が働きます。本書のメソッドを実行すると一時的に床に物が溢れてしまうという事もありますし、今後の人生をときめかせるためには「劇的」である必要があるのです。

 心が折れそうになったら、こんまりの「さっさと片づけを終わらせてください!」を脳内再生してください。『片づけコンサルタント近藤麻理恵プロデュース 人生がときめく片づけの魔法クラシック』なんてのも出たみたいですが、色々な叱咤や罵倒を収録したCDの発売予定ありませんかね。

「ときめくモノ」または「必要なモノ」だけを残す

 そもそもモノが必要以上に多すぎることから部屋の複雑性が上がっていきます。片づけを始める動機は殆どの場合、収納から溢れてしまったところから発生するため、収納から溢れた不要品を捨て、収納スペースを占拠する不用品を捨てて、空いたスペースに収納から溢れた不要品以外を格納するといった工程になりやすいです。

 これは相対的にいらないものを探して全体量を調整するという事です。しかし「収納できるから持っておく」という態度設定では積極的に捨てる理由がとくになかったモノが増えていってしまい、それが部屋の複雑度を上げたり、淀みを作ってしまうのは冒頭に述べた通りです。

 なので、ここで行うのは「いらないもの探し」ではなく、「いるもの探し」です。よって自分の今後の人生において何が必要なのかについて考える必要があります。「いるもの探し」を行うために、本書では以下の二つのメソッドを提唱しています。

  • 場所ごとではなく、モノ別(カテゴリー)で片づける
  • モノを触ったときに「ときめく」ものを残す

場所ごとではなく、モノ別(カテゴリー)で片づける

 カテゴリーごとに一旦全てのモノを集約して見ていくやり方については一度実践すると、その効果が分かります。場所ごとに見ていくと総量を把握することができませんし、自分にとって必要なものを選別するときに、例え同じようなものがあったとしても都度で判断すると実態と乖離しがちです。

 プロジェクト管理手法において「クリティカルチェーン」や「親方バッファ」という概念があります。これは個々人が独立してバッファ込みの作業見積もりを行なうとリソース重複や依存関係、実態的な総量などが把握しにくくなって非効率的になるため、関連するタスクを洗い出して全体最適を考える事です。

 片づけも同様に、カテゴリーごとに集約することとで適正量に対する全体量を把握し、これが壊れてるという事はこれもいらなくなるといった依存関係を考え、場所ごとではなくて自身のみがバッファも持つようにすることで最適なモノだけを残すことができるようになります。カテゴリーごとに分ける作業については、以下の順番で行うのが効率が良いとされています。

  • 衣類
  • 書類
  • 小物類
  • 思い出品


 最初の衣類は後述の「ときめき」を判断しやすい入門編になっており、後になるほどしがらみなどによって「ときめき」の判断が難しくなります。また衣類についてはカサがあるため、すぐにゴミ袋がいっぱいになって達成感による加速を得やすいという側面もありそうです。自分の場合、本に関しては思い入れが強い、量が多すぎる、既に本棚に収まっていて緊急性が低いといった観点から、最後に取り掛かるようにしました。自分にとっては「思い出品」扱いなのかもしれません。また「小物」にかんしてはガジェットなどかなり広い範囲のモノが含まれてしまっているため、そこについてはサブカテゴリーを考えた方がよいと思いました。

モノを触ったときに「ときめく」ものを残す

 ここでも「ときめく」という言葉が出てきました。「ときめくモノに囲まれる事で理想の暮らしを作る」というのはスピリチュアルな側面もあるのですが、一方でひとつひとつ手にとって「ときめく」かどうかを判断することは非常に合理的です。

 ある投資を行う際には「デューデリジェンス」と呼ばれる適正価格算定やリスク算定を行うのですが、小口案件や既に不良債権化している場合は、デューデリジェンスのコストの方が見込み回収額よりも高くなってしまう可能性もあって、他の大量の債権と抱き合わせ販売される「バルクセール」と呼ばれる形式がとられる場合があります。この中のどれかが上手くいくかもしれないから、いちいち中身を見なくてよいという態度設定です。

 これは従前までの片づけに似ています。確かに「この箱は開けないでおこう」と考えておけば何かあったときに、そこをひっくり返せば「当たる」可能性もある事は否定できませんが、そのような考え方の弊害を述べてきました。かといって、いちいち全てをちゃんと考えるのも無理があります。故に折衷案として、ひとつひとつを素早く判断するためには直観に頼る必要があるということです。

 この直観について私自身は「確率収束」がひとつのキーワードになると感じました。内田樹は「君たちにはほとんど無限の可能性がある。でも、可能性はそれほど無限ではない」と書いてますが、これは加齢によってさらに収束していく実感があります。同様にモノについても「今後も使われない可能性」というものが直観的かつ瞬間的に分かってくるということです。

 そして、この工程を経る事で予言の自己実現的な確率収束も起こります。つまり捨てられたモノは物理的に使えませんし、残したモノとは向き合う機会が増えて必然的に使う可能性が高まるということです。
「ときめき」を判断する直観について掘り下げると狩野モデルと呼ばれる品質特性について思い至ります。

品質を魅力的品質要素(充足されれば満足、不充足でも仕方がない)、一元的品質要素(充足されれば満足、不充足で不満)及び当たり前品質要素(充足されれば当たり前、不充足で不満)に考え、ネガティブな顧客情報を集めた改良型製品ばかりにならないように定義している(これは狩野モデルと呼ばれている。)

  • 魅力的品質要素
    • それが充足されれば満足を与えるが、不充足であっても仕方がないと受けとられる
  • 一元的品質要素
    • それが充足されれば満足、不充足であれば不満を引き起こす
  • 当たり前品質要素
    • それが充足されれば当たり前と受け止められるが、不充足であれば不満を引き起こす
  • 無関心品質要素
    • 充足でも不充足でも、満足も与えず不満も引き起こさない
  • 逆品質要素
    • 充足されているのに不満を引き起こしたり、不充足であるのに満足を与えたりする

 狩野モデルとは、あるモノの品質について「物理的充足度が低くても気にならないが、高いと魅力的に感じる」「物理的充足度が低いと不満を引き起こすが、高くても満足度は一定の範囲で収まる」といった特性の性格付けをして、投資対効果を考えるためのものですが、それぞれ「ときめき」「必要」と言い換える事ができます。

 本書では実用的なモノもときめきを感じるだったり、契約書や保証書などはときめきがなくても取っておく等と表現されていますが、素直に「あれば楽しくなる」「ないと困る」といった両面から考えた方が良いと思います。ただし「ないと困る」という判断でモノを残すのであれば、狩野モデルの活用方法と同様に「ネガティブな不安に対応するための改良型人生」を歩まないように、それが無い状態を想像して「本当に必要か?」を問いかけ続ける必要があります。ひとつひとつを手に取らなければ、そのような事を考えるのは不可能でしょう。

 先にバルクセールに例えましたが、あるモノを所有し続けるという事は債権に似ています。つまり今後の使用価値の回収見込みがあるからと持ってきたわけですが、片づけをしていくうちに実際には不良債権化したものばかりであったということにも気づいていきます。ポートフォリオを組みなおすつもりでモノを選定しなおす必要があります。

モノごとに「定位置」をつくり、他律的に戻していく

 ここまでの工程で、ときめくモノ達に囲まれる状況になりましたので、次工程ではモノを何処に置くかを決めていきます。これは「使った後は元に戻す」という原則のためです。この原則さえ守られれば論理的に散らかりえませんが、いきなり実践するのは難しいです。ここでカテゴリー別に分けてきた事が活きてきます。つまり、似ているモノは似ている場所に置くように決めていけば良いのです。

 本書でも「使う時の手間よりも、しまう時の手間を省くことを考えなければいけない」とあります。「しまう手間」の縮減を考えると「しまう場所をいちいち考えない」「面倒なしまい方をしない」という事が有効です。

 「見せる収納」も効果的です。お土産や初回特典などの小物類は包装のまましまってしまう事が多かったのですが、それでは使用価値が発生せず、大切にしているようで疎外してきたのではないかと気付かされました。本書では「本棚の上段をマイ神棚にする」と薦められています。このマイ神棚に自分がときめくフィギュアやポストカードなどを飾ることで、ときめく機会が増えますし「使った後は元に戻す」という作業自体が発生しません。まさに合理とスピリチュアルの共犯関係です。

他律という妄想

 一度「定位置」を決めきってしまえば、使い終わったモノを自然と戻せるようになります。GTDなどをはじめとしたライフハックは「都度の判断」をなくして他律的に管理するという特性があります。これは片づけでも同じです。「ときめき」の判断や「定位置」を決めるのは基本的に「片付け祭り」の時だけであり、そこから先は他律的です。これは判断の外部化であり、意志力の外部化です。

 『かとうちあき『野宿入門』で野宿道に入門する - 太陽がまぶしかったから』において、例えばスマートフォンは「私の足を機能として所有」する逆転が起こると書きましたが、同様に「定位置への引力」「モノ自身の意志」によって心地よく所有される事によって、自身の都度の判断を外部化するようになります。これはモノが発するアフォーダンスを積極的に受け入れていくという事でもあります。

 全てはドリームソルジャーとしての「設定」なのかもしれませんが、その「設定」に没入する自由もあります。Aという行為を行う時に真の理由Xは必要ありません。自己言及的でオカルトな理由YであってもAという行為が結果的に行われるのであれば、それはそれで良い事もあります。冒頭でも述べた「駆動」です。

 本書ではモノに対して挨拶をしたり、モノが安心できる場所を探したりとスピリチュアルな表現が続くのですが、まさに自己以外の意識を想定し、モノを式神化していき、その結果として意志力の外部化を助けるためのものであると解釈されます。それをアイロニカルに認識しつつも没入していくのです。

モノを把握すること

 またモノについての定位置を把握すると必然的に自身が所有しているモノを正確に把握できるようになります。場所と紐づかせる事で、「持っているけど使えない」という事がなくなりますし、「持ってないから調達する」といった判断も素早く行えるようになります。

 そして新たなモノを買うときには定位置を意識することで、利用シーンが想像でき、本当に必要かどうかが判断できるようになるのです。定位置が思いつかないものは式神化が難しいという事であり、活用できるかどうかに疑問符が付いていくため、最初から回避した方が良い可能性が高いです。

汚染を除去するために「掃除」する

 「掃除」は「片付け」とは異なる作業である事を強調ために敢えて3番目に挙げました。「片づけ」と「掃除」は性質が違います。なので「モノを選ぶ」「モノの定位置を決める」のと同時に掃除までやろうとしてたら、いつまでたっても終わりません。

 モノについては他律的に「片付け続ける」ようになりますが、その後もほこりがたまらなくなるわけではありません。寺にも「片づけ」はありませんが「掃除」はあるのです。繰り返しますが、モノが床にあふれている状態で掃除機を掛けたって二度手間、三度手間になってしまうため、同時に行わない事が重要です。掃除と片付けを混同するデメリットは『人生がときめく片づけの魔法2』にも補足的に書いてあります。

神社のような空間を作る

私の片付けの裏テーマは「お部屋を神社のような空間にすること」。つまり、自分が住む家を清らかな空気の漂うパワースポットにすることなのです。


人生がときめく片づけの魔法

人生がときめく片づけの魔法

 冒頭のとおり、引き籠るのであれば家中の居心地が良い事に越した事はありません。『ひらきこもりのすすめ2.0 (講談社BOX)』なんて本もありますが、人と会ったり、旅に出たりといったことを人生の中心に位置づけるのであれば、敢えて居心地を悪くするのもひとつの方法です。しかし、私自身は物理的移動権力を「家に居ること」として行使したいと考えています。

 過去のエントリで書いたノマドも婚活もシェアハウスも貧困生活などについても「なるべく家でじっとしていたい」という欲求から出たものです。パスカルは「ウサギ狩りをするのはウサギ肉が欲しいわけではなく、家でじっとしていたくないからである」と書いていますが、私は「家でじっとしているために、ウサギ肉が配達されたり、貯蔵できる環境を作りたい」と思いますし、家でじっとしていればウサギ肉を食べる量も少量で済むのではないかと考えています。

 もっとも私自身にとって「なるべく家でじっとしていたい」というのは心から望んでいる欲求ではなく、ウサギ肉をいちいち手に入れるのが怠かったり、そのための能力が低かったり、状況が悪かったりという諦観からも来ているものだとは思います。

 なのでトゥルーエンドは諦めてランクDエンドぐらいを目指しているのだという感覚はありますが、ランクDエンドが確定してしまえば後は結構快適ではあります。ときめくモノだけを残していく事は予言の自己実現的に「確率収束」を進めていくわけですが、これはさらなるバッドエンドを枝刈りする事でもあります。そして同じエンディングが確定できるのであれば「過程」においてはなるべく居心地の良い、再生産コストの掛かりにくい空間を選んで過ごした方が価値工学的にも改善となります。その中で運命の列車を乗り換える機会も出てくるのかもしれません。部屋が綺麗であればウサギに誘われたアリスが(ry

過去の自分達と向き合うこと

 収納ボックスを開けたり、本を並べるというのは自身の地層を発掘するようなものであり、過去の自分達と向き合うことになります。正直な事を言えば過去の自分には文化系への全能感がそれなりにはありました。それが良くも悪くも今では権限・能力・動機の全ての面から無理だと分かってしまうことばかりです。絵を描くことも、楽器を弾くことも、将棋を指す事も最低限の所すら押さえられず、今後も出来るようになる妄想すら抱けないのが現実です。

 でも、そのための経験は役に立ったんですよね。 何か直接の成果はなくてもこ人生の糧になったんですよね。もちろん・・いや・・今回の経験で我々は、いや、 今回も・・くっ・・何の成果も得られませんでしたぁぁ!!私が無能なばかりに、ただいたずらに時間やお金を無駄に使い、楽しめる境地になることも、何かの成果を出すことも、できませんでしたぁぁ!!

 それでも、ときめきを感じなくなったモノ達を捨てる事で感じる罪悪感や痛みとひとつひとつ向き合う事こそが必要なのだと思います。地層として積み重なった、ありもしない未来への不安や、間抜けだった過去や、分不相応かもしれなかった挑戦をしっかりと認識することで、今後はそれを回避しようと考えますし、同じような思いをしたくないからと吟味したり、吟味したからには努力出来るようになれる気がします。また「明日って今さ」と捨てる前に最後の役目を終えてもらう事もありました。捨てると思えば、本当に必要だった部分だけを残したり、いつかやろうと思っていた事をする事ができます。最後に「贅沢な使い方」をするのは背徳感もありますが、ひとつの供養なのだと思います。

 「使おうと頑張れば使える」というモノを使えないままの状態にして、自身を取り囲んでいるのは自分自身への疎外です。これは人や事も例外ではないでしょう。連続してときめくモノを残し、定位置を決めるという「片づけ祭り」によって自身の判断力が醸成され、その判断への自信をつけざるをえなくなります。それは「良い事」と一概には言えませんが、加齢によって「確率収束」を意識していくなかで一定の範囲では必要な事であると考えています。

「あなたという猫箱の中に、買収されて裏切ったあなたと、裏切ってないあなたの2人が共存しているわ。……その片方の、裏切ったあなたを殺す方法は?」


(中略)


「猫箱ごとあなたを撃ち殺せばよいんだわ」


うみねこのなく頃に ~魔女と推理の輪舞曲~

うみねこのなく頃に ~魔女と推理の輪舞曲~


 これは原発事故であれ、営業案件であれ、人間関係であれ、同じ事です。シュレディンガーの猫箱ごと壊したり、離れる事で本質的なリスクを避けることができ、その一方で「そうでなかった」可能世界まで保存することが出来ます。ここで殺せば裏切られる可能性を潰しながらも、「裏切ってなかったかもしれない」という一抹の希望だけは暗い藪の中に保存されるということです。宴もたけなわ、あいまいみーにしておく方が幸せなことはたくさんあります。

解像度を高めること

 部屋の中が不要なモノで満たされていると、本質的に無価値な情報が自身に飛び込み続けて処理能力を浪費します。このような情報摂取量を減らしていく事によって、些細な違いに気づくようになります。例えばモノが片づいている方がホコリに気づきやすくなるというのは想像しやすいと思います。これは相対的に解像度が上がっているという事です。

 ある部分への解像度を低めて、ある部分への解像度を高める。つまり各感覚器を意識して「チューニング」するという事です。これはユクスキュルの言う「環世界」という概念を考えるのに重要です。なぜ解像度を高める部分を作るのか、これは同じ体験から、多くの情報を取り出すためです。自身の「確率収束」は試行回数の限界への認識も内包します。もはや体験できない事や繰り返せない事のが多いという前提に立つと、一度の体験から色々な要素を得られた方が効率がよくなります。

 その上で工程管理のようにリソースの重複除去や依存関係を意識します。実験計画法はこのための理論なのですが、ある事象から取得できる情報がプリミティブな部分に限られればベストエフォートで逐次実行していく戦略しか取れませんし、プリミティブな部分すら「同じようなモノ」と見なす程度の解像度であれば、二回目の以降の情報量はゼロとなり、試行自体が無駄です。自身の脳細胞が保有する情報量なんて増やす必要がないというのもひとつの態度ではありますが、情報をインプットして考える事は私の数少ない趣味であり、私にとっては必要なことです。

乙女の祈り

 個々の疑問やモノ別のテクニック等について、『人生がときめく片づけの魔法』『人生がときめく片づけの魔法2』の両方でクドいくらい書かれています。自称「片づけのヘンタイ」だけあって、いちいち合理とフワフワが共存しており、とにかく片づけについて考え続けるのが好きなのだろうと思います。

 本書には「片づけという作業自体は物理的なものだからです」「片づけは目に見える形で必ず結果が表れます」という表現があるのですが、これはダイエットと同じく相関関係の明瞭化によるコントロール範囲の自覚でもあります。コントロールできないものによって、色々な事が残念になっているのではないかという疑惑はつきものですし、大抵の場合は本当にそうなのですが、その一方でコントロール可能なものをコントロールしてきたのかという事は問いかけていく必要があります。人事を尽くして天命を待つ態度設定はオカルトでもスピリチュアルでもありません。

 これらの事に誇大妄想が含まれている事は重々承知です。繰り返しますが、アイロニーを抱きつつも世界観に没入して身体を動かしていかないと仕方ないという諦観とポジティブの中間のような確信の元で、自身のための駆動装置を作っていくことが「あるべき姿」が比較的明瞭な片づけという行為にとっては重要なのです。「片づけの魔法」とは残りの人生をときめくモノで埋めていきたいという心意気を培うものなのかもしれません。そして最大限の環境を構築した上での「乙女の祈り」は絶技に変わるのです。

人生がときめく片づけの魔法

人生がときめく片づけの魔法

人生がときめく片づけの魔法2

人生がときめく片づけの魔法2