太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

インターネッツから「何かを得る」時に発生するダブルバインドについて

インターネットはからっぽの洞窟

アホみたいにインターネッツしていた

 9連休も明日で折り返し。既にダレてきていて、今日はひたすらインターネッツをしていました。普段あまり使わなくなった2chやニコニコ動画を観ていたり、増田を読んだり。それで何かを得たのか?と言われれば、特になにもありませんでした。先に何か問題や成果物があって、それを解決するために利用するであれば強力な武器になりますが、流れてくるものを、ぼーっと読んでいても難しいところです。休暇なのだから、何かを得る必要もないのですが。

 そもそもインターネッツから「何かを得る」ってなんだろうと思いました。まさか生き方が変わること? でもライフハックポルノを読んだり、増田や日記にブコメ付けたり、架空の労働論を読んで何かが変わるとも思えません。あいかわらず見たい世界を見て、自身の特性を強化していくだけです。

 そもそも「げんじつ!」から距離を置けばおくほどに、それを実践する機会は減ってしまいます。結局のところで、インターネッツから「何かを得る」というのは「ブログや飲み会のネタになるか?」って事に過ぎないのかもしれません。もちろん逆転満塁ホームランもあるのかもしれませんが、それを期待するには迂遠すぎます。

なんでインターネットに書かないんですか?

そうすると、体験したことを文書や写真にしてネットにアップしようとした瞬間、おもしく読める文章を考えてしまったり、ネットで映える撮り方を考えてしまったりするのですね。

それを考えはじめた瞬間から、その体験が不純なものになるというか、その体験そのものを離れて「見せ方」を考えてしまう。するとその体験が、薄まってしまうというか、流れ出してしまう。その場に集中して全力で楽しむことができなくなってしまう気がして。楽しいはずの体験が、仕事みたいになっちゃう。

 この話にはすごく納得しました。先にネットにアップする事を考えてから、ご飯を食べにいったり、本を読んだりするのって凄くアレだと思います。ブログ脳というか。

ダブル・バインドと「事件」の必要性

 この二つの話を組み合わせるに、やっぱりインターネッツのループにいても、それで食っていける算段でもなければ、仕方ないのかなーと思いつつあります。目的なくインターネッツをしても空虚ですが、目的をもってインターネッツをしても本来的な所は薄まってしまいます。『地方に一軒家を建ててアナログデトックスしたい - 太陽がまぶしかったから』ではアナログデトックスが必要であり、その代替資源としてネット中毒になる必要があると書いたわけですが、既に禁断症状が起こっているのかもしませんね。やはり強度が足りませんでした。

 なので仮に働かなくても生きていけるだけの貯蓄が出来たとしても、適切な課題を外部から発生させる装置として何らかの形では働かないと辛いんだろうなーと思いました。その意味ではニートすら向いてないのでしょう。金田一耕助は事件がないとメランコリアになりますが、インターネッツの外で安全に痛い事件が起こらないかなーとか思ってしまいます。はやくクリリン死なないかなー。それで「わたし、気になります!」って言ってくれませんかね。

氷菓 (角川文庫)

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