太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

人生がときめく後付けの魔法。または誰が「君は正しかったんだよ」と言うのか問題

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photo by geoftheref

毎日が記念日

 ツベルクリン良平さん*1 ( id:juverk )の『自省log』が1ヶ月更新記念との事でおめでとうございます。そういえば、うちも64日連続更新記念だったりもします。2ヶ月の時は言い忘れたけど『太陽がまぶしかったから』って名前的にbit数で表した方が「らしい」のかもしれません。iPhone 5s も64bitアーキテクチャですし。

 この1ヶ月様々な方のブログを拝見させていただき、やっぱ長く続いている人、上に行く人って自分のブログがどういうブログなのか認識して書いているんだなってところを強く感じました。客観的に見えていて、分析されている。


特にこの方々は

 

 情報学の情緒的な私試論β
(以下略)

 『「みんなにウケるのに個性的であってはならない」というけど「みんな」って誰でしょうか? - 太陽がまぶしかったから』なんかを書いたこともあって、どうもブログ論ブログのような位置づけが出来てしまって、「それって気恥ずかしいなー」って思いました。特に大きな実績があるわけでもないし。

人生がときめく後付けの魔法

 気恥ずかしさの原因はそれだけでなく、自分自身の事を考えるに殆どの事を衝動や直感で決めてから「後付け」で理論武装をしてしまっているのが実情だからだと思われます。今日だって「64日連続更新記念」だなんて書くつもりもなかったのですが、「1ヶ月更新記念」と言われて、こちらも記念日が言いたくなって「でっち上げた」というわけです。

 可能世界においては、結果に応じて後付で「最初からそれを求めていた自分のみが生き残る」という現象を起こす事ができます。つまり、「Aという結果を期待している私」と「Bという結果を期待している私」が同時並行で存在し、仮にAという結果が確定した瞬間に「Bを期待していた私」は死ぬのです。


(中略)


 私の思う『勝ち続ける意志力』は物理的な結果に応じて勝利条件の指標を入れ替えてしまうことで、勝った事にしてしまう事によって成立します。ダメな人だー(´Д⊂。その時に書き手としての満足度のみをストイックな指標とするというのも手なのですが、結果として使える材料が出来たならそっちも活用してしまった方が楽です。個々の実績を狙ってレイヤーを積み重ねていけば総体としてはそこそこの結果に錯覚できたりするものです。そして試行回数が増えるほど、総体での達成は容易になります。

 これも「後付け」の理論を「後付け」で作ったわけで、最初から狙ってやっていたことなんて殆どありません。せいぜい「炎上や不正に頼らない」「1日1回更新を習慣化する」っていう大方針ぐらいのものであとは適当です。その大方針にしたって「長く楽しめる趣味にするためにはどうするか?」って話から出たものです。達成感の話についても外的要因に類する物理的な事実は変えられなくても、「根拠」として取り上げる指標値を後付けで変えていけば「ときめき」が作れるかもという話でした。つまり「人生がときめく後付けの魔法」です。

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人工的環世界と複数指標の音量調整

 『はてなブックマーク圏における人工的環世界と縮小現実の可能性について - 太陽がまぶしかったから』では「環世界」という概念を紹介し、人工的環世界においては複数の指標に対する音量を調整して自分に最適化した世界が作れることについて指摘しました。この「後付け」の余地があることこそが人間の理性であり、倫理であると考えています。

 その上で、人間には「感覚器拡張」のための道具を作れるという能力を持っています。眼鏡や補聴器は言うまでもなく、ガイガーカウンターやオシロスコープ、ラジオやテレビ、そしてインターネットやスマートフォンなどにまで広がります。人間はそれらの指標を読み取り、解釈することによって世界のあり方を比較的任意に変える事ができるのです。これらの道具は一種の「拡張現実」であり、環世界の構成において「単位時間あたりの情報量を増やしたい」というパラダイムのために利用されてきました。


 しかしながら、常にラジオをONにしておくかと言えばそんな事はありません。集中力を乱すし、眠る事もできません。そこにあると分かっているのにも関わらず音量を下げたり、ON/OFFを任意切り替えられる事こそが人間の理性であり、人工的環世界の特長です。


「君は正しかったんだよ」と言って貰いたがっている人

 「君は正しかったんだよ」と言って貰いたがっている人が、たぶん沢山いる。
 診察室の内側にも外側にも。
 
 もとより、普遍的に正しい生き方は存在しない。正しい生き方は人の数だけ存在する。高収入なら正しい、家庭を持てば正しい、統計上、平均値や中央値以上に分類されれば「君は正しかったんだよ」となるようなものではない。正しさ生き方、正しい人生の形はたくさん存在する。

 シロクマ先生( id:p_shirokuma )の『「君は正しかったんだよ」と言って貰いたがっている人について - シロクマの屑籠』の全体論については、もう少し色々と考えなければと思っているのですが、この「正しさ」の部分について、「自身が年収八百万の男と結婚することができたから」「年収八百万の男と結婚する正しさ」が自身に捏造された場合も多々あるということです。

 年収600万の男と結婚する正しさ、年収300万の男と結婚する正しさ、フリーターの男と結婚する正しさ、無職の男と結婚する正しさ、ヒモと結婚する正しさ・・・。人は自身の持つ現実によって、「正しさ」を捏造して生きていくものです。この時に「自身の持つ現実」を「(適者生存に失敗した)あえりえた自分の現実」を用いて「正しさを捏造してしまう」と辛くなりがちなのではないかと思うのです。

ハラスメントだ!と騒ぐ人の論理

子育ての写真 → 子宝に恵まれない私へのハラスメントか!
ディナーの写真 → アレルギーに悩む私へのハラスメントか!
仕事の話題 → 就職に失敗した私へのハラスメントか!
デザインの話題 → 色弱の私へのハラスメントか!
車の写真 → 交通事故で後遺症を負った私へのハラスメントか!


誰が「君は正しかったんだよ」と言うのか

 案外たくさんの人が、自分自身にインストールされた「正しさ」にそぐわない自分自身に葛藤を抱えている。東京のような、自由度の高い街、思い通りに自己決定できそうな外観を呈した空間では尚更だろう。少なからぬ個人が「こんなに頑張った私に、正しかったって声をかけてよ」と思っているんじゃないだろうか。なぐさめの言葉を待っているのではないだろうか。

 シロクマ先生は「赦し」を自己生成する事は忌諱される場合もあるとし、「誰か」という「外部」にそれを求めることになるだろうと指摘します。私自身としても「100%の自己生成は難しい」という前提の下で、指標候補を複数持っておいて「偶然うまくいった外部」を活かせるように環世界をチューンして「赦し」をもらうという「後付けの魔法」の効率の良さについて書いてきました。

 この事は宿命論の受け入れであり、努力の放棄だと考えるのは一方では正しいのですが、一方では誤っています。よほどの強運でもないかぎり「偶然うまくいった外部」の質や量を増やすためには正しい方法論を選びとることを含めた努力が不可欠ですし、何もうまくいかなければ無理ゲーになる可能性は認めています。そして、そもそも「赦し」は「終わる」ためのものではなく、次のステップのための一里塚という見方もできます。

 もちろん、インストールされた評価指標を切り替える事自体が至難の業だというのが本来的な問題です。「お金さえ払えば高確率でうまくいく外部」と位置づけられやすい特定宗教から為された「赦し」すら「素人童貞≒ノンビッチ童貞」に近い自己レッテルがありえるのではないかと思ってしまう所があります。じゃあ、どうすれば良いのかなんて事は簡単には言えないのですが。

人生がときめく片づけの魔法

人生がときめく片づけの魔法

*1:すごい名前だ。。。