太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

階層別結果平等という宿命論と没落への恐怖の共有。それを回避するためのノブリス・オブリージュ

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photo by Pioneer Library System

チープ革命と結果平等による「階層別結果平等」

 『過剰な努力をしたくないから、努力が報われすぎる社会になってほしくない - 太陽がまぶしかったから』では私の中の宿命論は「階層別結果平等」に支えられていると書きました。同じ会社に入れば実力主義とは言っても給料の差なんて同期で2割もつかないのが一般的ですし、もっと視野を広く持っても給料が高くなれば税金や社会保険料も高くなるわけでサラリーマンが貰える程度の給料であれば過程がどうであれオンバランスとして認知できる結果はあんまり変わらないというのが実情です。

 また高給取りでなくてもiPhone 5s 64GBは持てるわけですが、超富裕層だったとしてもそれを超えるスマートフォンを持つことは難しいという事実も結果平等を支えています。コンテンツはインターネットや古本屋などによって安くなりましたし、イベントにしたって無料開催にできるだけの理由が揃ってきました。生活用品にしたって衣料であれば『5000円のスーツを新調して「スーツ vs ギーク」や食品偽装問題に思いを馳せた話 - 太陽がまぶしかったから』なんて事もあるし、スーパーには安い食品があるし、都内に住まなければ家賃は安くすみます。

階層を分断するもの

 安い場合にはちょっと不便とか、ちょっと品質が悪いとかがあったとしても価値工学的観点における機能的要素としては大体平等になってしまいます。車でさえ今はローンが簡単に組めるため、他のことを我慢すれば低所得者層でも普通に買えています。

 しかし、iPhoneが欲しくても持てない事情を持つ人々がいるのも確かですし、最低限の衣食住がなければ死んでしまうのも事実です。そこを含めて「結果平等」というのは難しいというのは認めざるをえないため「階層別結果平等」という言葉になるのです。

没落への恐怖の共有

 このツイートの通り、「努力しなかったせいでどうしようもなくなってしまった人」を描く作品が増えてきました。それは努力が上方向に報われにくい事に対するシニカルさは前提としつつも、一定の範囲にいる限りは大体同じぐらいの道具立ては揃えられてしまうという実感があり、それでいて下側に突き抜けたらオシマイというリアリティの共有があるからこそ、流行るのだと思うのです。

下側に突き抜けることの簡単さ

 以下の記事では、「3割の人はどんなに自分が悪いことをしても好きでいてくれますし、別の3割の人は自分がどんなにいいことをしても嫌われます」というテーゼの危うさを書きました。

 私自身も宿命論者な部分があり、30歳を超え時点で相当な部分での確率収束が起こってしまい、犯罪以外の何をしようが大きくは変わらないという楽観と諦観があります。今から野球選手にはなれませんし、秒速で1億稼ぐことも、都知事になる事もまぁありえないでしょう。その一方で事故や大病でもない限りはそこそこ安定して暮らせそうだという楽観があります。


 しかし、この宿命論にだって「犯罪以外の」「事故や大病でもない限り」といった確率変動装置は存在しています。ネガティブかつ極端な例を挙げていますが、意志をもってやろうと思えばできてしまう事であり、宿命論は案外簡単に壊れてしまうのです。なので「3割の人はどんなに自分が悪いことをしても好きでいてくれます」って事については「色々な留保」が暗黙の前提になっているるのではないかと思います。
 

3:4:3<さしみ>の宿命論と確率変動〜コミュニケーション能力は確率変動のためのものである - 太陽がまぶしかったから3:4:3<さしみ>の宿命論と確率変動〜コミュニケーション能力は確率変動のためのものである - 太陽がまぶしかったから

 ここでは事故や大病や犯罪といってますが、そうでなくても無断欠勤し続けたり、借金をつくったり、反社会的勢力と絡めば簡単に没落します。それは年収が100万高いとかそんな程度の事は関係ありません。なので、それを回避するための行動についてまで宿命論を信じてシニカルに捉えるのは難しいという実感が共感を得やすいのです。

宿命論と貴族主義

 ある程度の年齢になった人々が宿命論や諦観を言えるのは、没落については暗黙的に回避できる程度のリソース確保ができており、それ以上の努力が報われる必要もあまりないという一種の貴族的な状態になっているからなのです。「貴族」と言いつつ、それはかつて庶民と言われた大多数です。

見返り前提の何かって不毛っていうか不確かすぎて、そもそもやる意味がない気がするし、見返りがないからやりたくないと思うなら、それは無理してまでやんなくていいことなんじゃない、という感じ。
だってごほうびを期待して頑張ったのにごほうびがなかったら、ガッカリするじゃないですか。嫌なことガマンしたのにさらにガッカリするとか、何それつらい。


ただ、大人になったら生きて行かなきゃいけないんで、主に生活費を稼ぐために働く等やりたくないこともしなきゃいけないけど、それはまた努力とは違うというか、なんか、義務っていうか、仕方ないことですよね。


報われたいから努力するの? - インターネットの備忘録(はてなブログ版)報われたいから努力するの? - インターネットの備忘録(はてなブログ版)

 私自身は見返りが本当に100%あるなら、徹底的にやるかもしれないという事を書いたのであって「不確か」なものを求めての努力は債権感を覚えやすいのなるべくしたくありません。ただし、没落しないための「義務」については暗黙的にやっていますし、比較的報われやすいものであるとは思います。その上で、余剰分を使って報われなくても良い事について努力したり他者に投資したりするという「趣味」もしています。趣味でやってる事なので、別に「努力」とは思っていないのですけれど、言葉遊びですよね。

ノブリス・オブリージュの二面性と25歳前後の生まれ変わり

 ノブリス・オブリージュとは「高貴なる義務」という事なのですが、現代の貴族に求められる「高貴なる義務」には二面性があって、「没落を回避する義務」としてのノブリス・オブリージュと、「見返りを求めない『趣味』を行う義務」としてのノブリス・オブリージュがあると思うのです。後者を行えるものが本当の意味での貴族なのかもしれませんが、それは階層別結果平等における中間層以上にある場合においては心意気の問題です。能力や権限ではなく動機の問題です。

 ノブリス・オブリージュは「生まれが高貴であるならば社会的義務を負え」ということであって、努力によってその位置にいった人にまで求められる性質のものではありあせん。ただ、殆どの人は25歳ぐらいの時に今後固定化されていくであろう状況についてはたと気付いて「生まれ直す」のではないのかと思うのです。それは色々な人の言う25歳までは寛容に接してあげようという話ともリンクします。

 その一方で、どのように生まれ直せるのかを操作できる状態にある若い人についてまで、敢えて下側にいくように誘導するのは社会的損失であるとも思われます。それは努力しても上手くいくとは言い切れないからこそ、試行回数を増やさないと社会全体としての出来高が確保できないという冷徹な話でもあります。ただまぁ自分の子供がいわるわけでもない私にとっては、それもまた趣味に過ぎず、見返りを求めるような事でも責任を感じるようなことでもないだろうと思います。

東のエデン (文庫ダ・ヴィンチ)

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