太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

過去への債務を精算するため、なるべく今ある在庫で余生を過ごしたい

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photo by Jennerally

積読だけは辞められてない

 『階層別結果平等という宿命論と没落への恐怖の共有。それを回避するためのノブリス・オブリージュ - 太陽がまぶしかったから』では「階層別結果平等」について書いたものの、それはあくまで過剰な支出を前提としないものです。やはり高価なものは存在していますし、無限に増やせる類の支出をしていると、あっという間に没落するであろう意識もあります。

 なので私の感覚としては収入に合わせて支出を上下させようということではなくて、機能的要素を満たす範囲でもっとも小さな支出にしようという意識が強いのです・・・と言いながらも辞められないどころか加速している事のひとつに「積読」があります。

積読人生は未来の自分への過度な期待

 そもそも本を買うという行為は、それを読むための時間をセットにして払うのが正しい姿です。もっと言えばノートやブログに書いたり、解釈・実践したりする時間もセットにすべきですし、紙の本であれば家賃のいくぶんかもセットで支払っているのです。

 どうも自分にはこの意識が弱いようで、本を買う時には当然読める自分を想像してしまうのです。スポーツジムに週3以上は通えるからと月会員になってしまうように、未来の自分への過度な期待をしてしまう傾向が強いのかもしれません。

電子書籍セールと債務感

 Kindleは期間限定セールを頻繁にしています。それはそれで、非常にありがたいことではあるのですが、積読がものすごい勢いで増えていきました。紙の本についてはスペースという制限装置があったので治まってきたのですが、そのリミッターが外れた上に「今買わないと損」という事を刺激してくるのでついつい買ってしまいます。

 でも、今ある本すら殆ど読めていないので、それを読むのは随分と先になりそうですし、そもそも読めないまま一生を終えるのかもしれません。そう考えると本を買ったのはこちらのはずなのに、それによって大きな債務感を意識してしまいます。

過去への債務

 「怠惰は未来の自分への借金」とよく表現されますが、むしろ「未来の自分が借金」しているのではないのかと思うのです。当時の自分はちゃんと活用してもらえると思って代金を支払った側です。観測されないまま不確定状態にあるビットの配列に。その取り立て人は過去の私です。

 考えてみれば大切な事ほど先送りにしてきた人生でした。「試す事に失敗はない」と言って「指の角度を変える」ことはしてきましたが、抜本的なことはあまりできませんでした。色々と助けてもらった人への恩返しもできないないまま、「債権感」ばかりを主張するような事を書いてきました。本当は債務だらけなのに。

http://lair-onett.hatenablog.com/entry/2013/10/31/051556

その色々な人の「思いやり」で無限地獄から救い出されたおいらは、いかに自分が多くのものを世界から受け取ってたのかに気付いて、感謝できるようになりました。っていうと、これまた陳腐ですか。
で、まぁ、恩返ししたくなったわけです。池田仮名さんがよく「債権感」って単語を使ってますけど、おいらの場合「債務感」かなぁって。借りは返さなきゃ、ってとこです。

 もちろん「債務感」についても持っているのです。親であれ、友達であれ、仕事先であれ、元恋人であれ、特別な関係性のないすべての人々に。ただその感覚が日々の暮らしの中で摩耗していく事に気付いて恐怖を感じました。貸した事は覚えているのに、借りた事は薄情なぐらい忘れてしまうのです。なので、ひとつの呪いを自身にかけました、そうして生まれたのが「過度に債権感を主張する過去の自分」なのでしょう。本当に返さなければいけないのは現時点の私なのです。

今ある在庫で余生を過ごしたい

 話が大幅に飛びましたが、既に私には債務が沢山あり、その象徴のひとつが積読だという事です。もちろん、デフォルトを宣言せざるを得ない部分もあるのですが、そうは言っても債務を減らす方向にシフトする時期なのかもしれないと思っているところはあります。

 ここには出さない事を含めた色々な事には、そういう意図も少しはあります。実効力なんて微々たるものですし、見返りなんて見込めない投資なんだというアイロニーは承知のうえです。だから強いて言えば「趣味」と表現するしかなかったのです。その上で徐々に自分のために使えるお金を減らす方向にすれば今ある在庫を活用せざるを得ない状態にできますし、今後は返せるという思い込みも減らせます。

 「階層別結果平等」という幻想は「もう未来の自分に大きな期待しない」という宣言でもあったのですが、未来の自分が平準化するという楽観があるからこそ、今の自分ができる事を精緻に考えられるのではないかと思うのです。その上で多少は幸せなルートを描いてみせることが過去の自分への債務精算なのかなって思っています。「そうやってまた見返りを求めている」のだと言われれば、まぁそうなのかもしれません。私は下らない日常に大袈裟な意味付けをして遊ぶのが好きな俗物なのです。