太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

ブログを99日連続更新したので隠居するけど、目指すのはロードサイドで独自発展したコンビニなのかなって思った話

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photo by grantlairdjr

ブログを隠居することについて

 おかげ様で『はせおやさいさんのブロガー人生相談イベント『池田仮名さん、長文ブログを書く理由は、なんですか?』オフレポ - 太陽がまぶしかったから』も無事終了し、『2013年10月のはてなブログランキングができましたよ - はてブのまとめ』でのランキングでも5位とのことで、ありがとうございました。今日で99日連続更新ですし、諸々の「思い出作り」もひと通り終わったので、宣言してた通り、徐々に隠居していっています。既にそういう事を意識しながら書いているエントリもあります。

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 『はせおやさいさんのブロガー人生相談イベント『池田仮名さん、長文ブログを書く理由は、なんですか?』に思い出づくりに登壇する話 - 太陽がまぶしかったから』では戦国時代における褒章の話をし、「土地」よりも「茶器」が欲しいという事を書きました。「茶器」を管理するのは「土地」よりも労力が掛からないので持続可能性が高いのです。なのでこのブログの余生としては茶器を愛でながら、時折ふらりと来訪する人々を歓待して過ごそうと決めてました。

 偶然的にうまくいったことで土地(=注目量)を広くされても、それを統治する力量なんてありませんし、どうしたって罵倒されたり、失敗しにくいと窮屈になっていきます。じゃあお金?って言われてもアフィリエイトなんて時給換算したら100円を超えるのすら難しいのが現状です。


 だから私は「茶器」として、「一定の公共性を持った思い出」が欲しいと思いました。ある「実績」を解除できたら、それを元金にしてさらに上を目指せるという側面と、一回でも解除してしまえば、そこで終わってもよいという側面があります。しかし人はいずれ死にますので、維持をし続けたところで最初から有限性を内包しています。そのように考えた時に、意識低い系男子としてはなるべく早く「昔はお前のようなブロガーだったが、医者に就寝前のMacを禁止されてしまってな」って言って隠居したいにゃん。

 ちょっと誤解されていたのですが、「隠居」するのは僕自身じゃなくて、このブログだけです。「引退」でもないのでアカウントを消したり、更新を止めたりもしません。じゃあ何が違うのかと言えば「指一本の角度の違い」です。このブログ自体の注目量をある程度減らしたいのと、「自分にとって楽しいか」をこれまで以上に考えたいって事ですね。既に何度か書いてますが内輪ノリのが好きなんですよね。豚組でキャッキャウフフしたオフレポとかしたいもん。

外的状況の変化もそれを後押ししてる

 案の定、隠居宣言時点で予言していた通りの状態になっていきましたが、それに抗う気はあんまりありません。歴史は今日もそれを知らぬ者によって退屈に繰り返されるのです。それでも大抵の当事者にとっては「初めて」のことなのだから価値がないとは言えませんし、批判者もまたその繰り返しの中の配役に過ぎません。

 いわゆる「身内ブクマ」に関しては、『そろそろ、はてなブックマークスパム問題について当事者から語っておくとするか - 太陽がまぶしかったから』のように内部からも牽制してたつもりですが、徐々に崩れていってたところもありますし、それ経由のアクセスが寄与してた部分もあった事は認めざるを得ないとは思ってます。割合としてはそんな多くないんだけれども。

 少なくとも私からは面白いとか、コメントしたいとか、こちらに言及があったみたいな理由があるからしてるわけですし、私のエントリにブクマが殆ど付かない事も多々あります。今後とも義理ブクマみたいなのは必要ありませんし、こちらから返すつもりもありません。

駅前ブログと隠れ家ブログ

 そういうのも必要以上の注目量の弊害なのですが、それを考えるに「隠れ家」という概念はひとつの補助線です。『R-style » よいもののアピール、あるいは隠れ家的在り方について』では「隠れ家ブログ」という概念が紹介されます。これは id:snowy_moon さんの『「ブクマ」が壊すブログの平穏 - 雪見、月見、花見。』にも「大通り」「路地裏」として対比される事にも相似します。

隠れ家ブログと比較的に扱ったのは、「駅前立地のファストフード店」です。
ともかく人通りの多い場所に店舗を構え、その内の何%かを捕まえる。回転率が重要なので、マニュアルが整備され、対応もそれに準じたものになる。


対して隠れ家的お店は、立地的に劣った場所に店を構えながらも、そこでしか体験できないサービス(なり食事なり)を提供する。そして、「わざわざ足を運んで」もらう。


ロードサイドのコンビニ

 この例え自体は非常に納得できるものなのですが、実際にはどちらも難しい話です。駅前に構える事もできませんし、特別な体験を用意して「わざわざ足を運んで」もらうのはもっと難しいのです。それでいて、自身の事について「これは、よいもの/わるいものである」という前提を自己判断で勝手においてしまうのも少し傲慢なのだろうと思っています。あくまで「一定の市場評価」には晒しつつも、有名にはなりたくないという微妙な立ち位置が欲しいのです。ブログで感想が欲しいってのはその流れのひとつです。それを「隠居」と呼ぶのはまた微妙なところなのですが。

 なので、目指すところは「ロードサイドで独自発展したコンビニ」なのかなと思いました。見知った看板で、見知った商品が並べられているから近隣に住んでる一見客もふらりと来る一方で、青い制服を着た店長がやけに話しかけてきたり、常連と長話してたりしつつ、店独自の施策やルールが多くてどこか狂ってる感じ。もちろん好きだったあのブログの事を考えてます。まぁ、例えたから何だって話ですし、餃子の王将なんかのが業態としては適切かもしれませんが。

論理距離が近いことを前提とした機能的充足

 ある見込み顧客がそのコンビニに行くかどうかは「距離の近さ」がもっとも重要な要素です。そのコンビニが独自施策をとっていたところで、電車で通うのは相当の物好きですし、目につく店舗や看板が一番重要な宣材です。しかし、それ故に独自施策があれば気に入る人も、気に入らない人もいるのでしょう。例えばコンビニに入ってもおにぎりをひとつも置いてないとなったら怒りを感じる人もいるのかもしれません。

 別のブログに行けば良いじゃんって話だけでは済みません。はてなブックマークや検索などで来た時にタイトルだけの釣り記事で本文が殆どないまま、広告ばかりあったら怒りを覚えるのも当然の権利だと思いますし、自分も嫌です。タイトルが長くなってしまうのは誤って読む人を減らしたいってのもあります。

つーかカルビーのポテチ売れねえ

 最低品質を満たした相応のコモディティ化の意識ってのは必要で、それでいてちょっと違う視点を入れてみるみたいなところに自分のツボがあるのかなって思っています。何度か出てるキーワード「普通の日記風エッセイ」ってのはその通りなのだけど、自分にはやっぱり難しいですし、純粋に笑いを取るのはもっと難しいです。なのでまぁ適当なところで折り合いを付けることになるのでしょうが、それもこれも「指一本の角度の違い」です。

 私のコモディティ願望の強さは「指一本の角度の違い」が重視できるからなのだと思います。全てゼロから構築するだけの力量はありませんし、かといって御仕着せされるのも大嫌いなので、妙な独自アレンジを加えてしまうというのがあって、それを試行錯誤している時間が好きなのです。いわゆるホーソン効果でもあるのですが、実際にそれなりに客観的な効果もあったと思います。

 実は店長のブログを引用しつつ書いた「特殊なコンビニ経営に学ぶ〜」云々という下書きがあったのですが、それはもう公開すべきではないのだと思います。なので、せめてそういう事を意識しているのだということだけは書いておきたいと思いました。

コンビニと日本人 なぜこの国の「文化」となったのか

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