太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

イオンへの思い入れが全然ないからゾンビ映画談義するけど意志力が節約できる娯楽的消費なら自分のゾンビ化歓迎したい

都市と消費とディズニーの夢 ショッピングモーライゼーションの時代 (oneテーマ21)

イオニストが話題になっている

 1990年代に規制緩和があって以来、郊外には大きなショッピングモールが建てられるようになり、そこに様々な消費的娯楽が一極集中して提供されるようになった。速水健朗は『都市と消費とディズニーの夢 ショッピングモーライゼーションの時代 』において「都市の公共機能が地価に最適化した形でショッピングモールとしてつくり替えられ、都市全体が競争原理によって収益性の高いショッピングモールのようになっていくという変化、現象」として「ショッピングモーライゼーション」と呼んだ。

千葉県に住む30代主婦は、休日だけでなく平日も週に2回は近所のイオンモールに出掛けるという。


「イオンに行けば食品スーパーはもちろん、100円ショップにユニクロ、マッサージ店やクリニックまで何でも入っています。小さな子供を連れて行っても安心なゲームセンターや運動遊具が利用できる施設もあるので、1日中いてもまったく退屈しませんね。フードコートで休んでから帰ろうと思っても、幼稚園のママ友に会ってつい長話……。家に帰ったら夜の8時を超えていた、なんてことはしょっちゅうです」


http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20131102-00000002-pseven-bus_all

 客寄せの設備を集中化することで、まずはモールに通ってもらう習慣をつけ「ついで買い」を喚起する。そんな流れのなかで、消費者もそこに最適化していって、ついにはイオンで一日過ごす「イオニスト」が増殖したと言われている……なんて話を読むたびにいつも疎外感を感じている自分にも気づく。

ショッピングモールに向かいつづけるゾンビ

 ショッピングモールといえば、やはり『ドーン・オブ・ザ・デッド』を思い出さずにはいられないが、それ自体は自分の生活とは無縁なものであったが故の非日常感があった。大量のゾンビが街を歩くなか、とりあえずショッピングモールに集まる生き残りの人々と、死ぬ前の習慣でショッピングモールに向かうゾンビという対比によって消費社会を皮肉っていると言われているが、ショッピングモールであれば堅牢性と居住性と物資について一定のリアリティがあるし、お金が意味をなさなくなった時代においては最高の場所になり得る秘密基地のような感覚がある。

 ちなみにイギリス映画の『ショーン・オブ・ザ・デッド 』の場合はパブに立て籠もって速攻で破壊されるし、同じアメリカ映画でも『ミスト』の場合はスーパーマーケットであり、店舗入り口にある壁一面のガラスが割れるシーンがあったりして、堅牢性に疑問を抱かせて不安を高める演出がある。堅牢性を高めた「壁」への信仰と、それが崩れてしまった混沌は『ランド・オブ・ザ・デッド』によるゲーテッドタウン化や、それをファンタジーに置き換えた『進撃の巨人(1) 』などで描かれている。そういう話であれば色々語れるが、自分自身の生活との紐付けが全くできなかったりする。

普通の東京生まれ、東京育ちでイオンの凄さが実感できない

 それは自身の幼児体験によるものが大きいのだろう。私自身は東京生まれ、東京育ちであり、転勤で大阪や神奈川に行った事はあっても田舎らしい田舎で生活をしたことはない。地域の店は点在するのが当たり前であり、そこそこ大きいショッピング体験といっても駅ビルぐらいのもの。そうなってくると、ショッピングモールの便利さや堅牢さや、そこで一日過ごす事についての実感が全然湧かない。

 ショッピングモールには“ハズレ”が無い。あったとしても、すぐ撤去されて二度と戻って来ない。ということは“ハズレ”を引く残念さ、あるいは“ハズレ”と世間でみなされていても自分自身にとって“アタリ”とみなせるものに出会う確率も低い、ということでもある。
 
 そうした“ハズレ”は、ある面では非効率の産物、一般受けしない何か、誰にとって価値があるのか不明瞭なものだ。贋物を掴むこともあるだろう。“ハズレ”の無さ、贋物の無さは、ショッピングモールの長所でもある。誰でも一定のクオリティの商品を確実に手に入れられる長所は、路地裏の商店には絶対に真似できないものだし、かけがえがないものだ。
 
 ただ、そうした商品に包まれ、あまつさえプライベートな時間の過半を預けてしまい、消費や文化の寡占状態になってしまうことに、問題は無いものだろうか。そういった毎日の繰り返しは感性にどのような作用を及ぼし得るだろうか。
 

 先のような感覚があって実感があまりに薄いので「ほんとにそんな凄い場所なのか!」という憧れをむしろ感じる。私自身はプア充の文脈でTUTAYAに在庫のない音楽や映画はこの世に存在しないのと同じだと思っているし、それを元にコミュニケーションできる期待がないコンテンツは消費できないという病気がある。

娯楽に対する省エネ体質を求められること

 自身が省エネ体質だからこそ十分にキュレーションしてもらった方が楽だという感覚がある。休日の予定が決まっているなんて羨ましい。それには二面性があって、「たかが娯楽的消費に必要以上の意志力を使う必要はない」という事と、そのぐらい「他に意志力を消費するシーンが増えてしまった」という事だ。仕事であれ、契約であれ、意志力を消費しなければならない場面が既に多すぎる。

 繰り返しますが、ひとつひとつは冷静になれば大した話ではないのです。それでも契約数が多くなるごとに暴力性を帯びてくるように思われます。短時間のうちに使える意志力の合計量は個々に決まっており、それを超える意志力を発揮するのは難しいわけで、10個までなら冷静に対処できても100個になれば1個ぐらいバカになる瞬間がでてきてしまうのも仕方がないのです。

 「大量の細かい契約が増えたから」ってのは一面であって、娯楽に対するストイックさも自身の認知資源を削り取る要素となる。「本当に楽しいゲームであれば、明日が仕事であっても徹夜してしまうものだ」というテーゼは正しい一方で、徹夜が許されない環境においてはダブルバインドを発生させ、むしろ大きな消耗を自身に課している。つまり、そこそこ楽しいゲームだから許せるのであって、ブログであれダーツであれ格闘ゲームであれ、娯楽へのストイックなのめり込みは自身を削り取ってしまう。

 なので、「完全に自分にフィットするものを見つけるために自由な消費主体であることなのが本当に幸せなのか?」という事自体に疑問がある。「こんな辛い世の中なら、いっそゾンビパウダーを飲ませてそこそこ楽しませてくれ」と言っているようで、すごく残念な話でもあるのだけど、「僕と契約してイオニストになってよ!」と言われれば「はい、よろこんで!」って答えてしまいそうな自分もいるし、そもそも私はマイルドヤンキーになりたいのだ。それはそれでショッピングモールそのものをあまり体験した事がないオリエンタリズムに根ざしているものなのかもしれないけれど。