太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

終末の過ごし方

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photo by lazy fri13th

ネオフィリア

 今日も酔っている。ここ最近、自身にまつわる色々な事に飽きてきていて「変えたい」という欲求が高まっている。『ネオフィリア―新しもの好きの生態学』という本で「新しもの好き症候群」について書かれているけれど、まさにそういう病気に掛かっているのだろうと思う。

 物事が長く続いた試しがない。パズドラには1ヶ月半で飽きていている。学習曲線における第一プラトーで大体飽きる。実はブログを書くのも2ヶ月ぐらいで飽きていたけど、いくつかの話があったので「じゃあ100日連続更新までは頑張ろう」となった。それが終わって半月経ったところ。で、そこまで来ると更新しないのも勿体ない気がするし、心の歯磨きとして書いている感じ。良く言えば習慣化、悪く言えば惰性。

 『【…え!?】メキシコが運転免許の試験制度導入 交通事故多発を改善のため - エキサイトニュース』の件とか、「やっぱり趣味なんだから一定のところで自分の実存と切り離さないとね」なんてウエメセで言う事もできるけど、持続的に本気になれる事があるってのは本当に羨ましい。自分の場合は常に色々な◯◯鬱に掛かっているようなもんだから。

 それで、プログラミングに手を出してみたりもしてるわけ。でも1週間ぐらい遊べるかと思った『はてなブログにトラックバック機能を拡張するウィジット - 太陽がまぶしかったから』も意外に簡単に完成して手持ち無沙汰感がある。集中できたのはせいぜい6時間ぐらい。でも仕事すら惰性でまわしてしまっている中での6時間は久々に大人気なく楽しめたと思う。

社会貢献としての無駄な課題

 最近 id:inujin さんの『答えを出すことだけが、答えではない。 - 犬だって言いたいことがあるのだ。』の中の一文を思い起こす事がある。

むしろ「ムダなものを作り出すことこそ社会貢献」という文脈が自分の中に明確に生まれたことを素直に喜びたいなあと思う。


最近は色んな場所で「世の中の課題を解決する仕組みや価値を提供して、社会に貢献したいです!」というセリフをよく聞くし、自分もどさくさにまぎれてそれに近いことを口走ったりする。


しかし、どうやら、課題を解決することだけが社会貢献ではないようである。


むしろ、多くの人々なり事業なりがその解決に乗り出したくなるような課題なりテーマなり命題なりを作り出すことだって社会貢献のようなのである。


答えを出すことだけが、答えではない。 - 犬だって言いたいことがあるのだ。答えを出すことだけが、答えではない。 - 犬だって言いたいことがあるのだ。

 誤解を恐れずに言えば、こういう問題が起こってくれて有り難いとすら思う部分もあった。メタに立てば物凄く下らないし、人が死んだりするとも思えないのに、ベタに入りこめば結構難問という課題が用意されている。その意味で「私にとっての貢献」はあったのだと思う。この運動量は大きな流れの中に回収されてしまうのだろうけど、私が動いたその瞬間の楽しさだけは本当だった。

 このような事象について、「だから下らない」「だから大切である」の両面から評価が出来る。どっちが「正しいか」なんてものではないのだけど、あまりに前者を思うのであれば「結果」とやらを過大評価しているのではないかとも思う。

結果は次の過程のため

その時頑張ってても時が流れ過去となるとき、今の自分がしんどくなることはありません。頑張ったという充実感や記憶がのこります。後悔を「感じること」はないでしょう。


だとしても「死ぬ時後悔しないように」という言葉には「死ぬ時後悔するからいまやれ」という恐怖を原動力にする言葉におもえてなりません。


もし、字面どおりとるならば、その日の為に何年も頑張るのならば何年も楽をしてその日を後悔しようと思います。


極論すればあなたが生まれたのは死ぬ時の為だと思えてしまいます。


「死ぬ時後悔しないように」という考え方は割にあわない - 8bit「死ぬ時後悔しないように」という考え方は割にあわない - 8bit

 そもそも「結果」はその次の「過程」をより有利に進めるためのもの。死ぬ瞬間まで頑張り続ければ、死ぬ間際の過程をマシに感じながら息絶えるだけ。若い人は頑張れば良いけど、ここから先の過程をマシにできる「結果」って何が必要なのか悩んでいる。出世? 子供? もはや、すっぱい葡萄なのかどうなのかすら自分でも分かってないけどあんまり求めてない。まして「飽きたから変えたい」なんてネオフィリアを発病したらどうしようと思って踏み込めなくなった。

 終末の過ごし方。私の世界はいつか終わる。私が終わっても活発に動き続ける世界を夢見て死にたいのか、活発に動くだろうという期待を作ることそのものを楽しむのか。それは、両輪なのだろうけれど退屈な終末にならない第一歩として週末は出かけようと思う。うまいこといけば40年間は過程が続くのだろうし。

宗教と終末医療 (アーユスの森新書)

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