太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

「人生のネタバレ」に対する内部環境の下方硬直性を保つために「切断」と「抵抗」のどちらが必要なのだろう

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photo by A.Davey

最高得点だけが朧気ながら見えるのが「人生のネタバレ」

 『http://www.ikedakana.com/entry/2013/10/31/074600』においては、没落の恐怖と上方向への宿命論を書きました。

 これはあるゲームにおいて、ここから先の最善手を積み重ねられたとしても最高100万点までいける人も、最高50万点しかいけない人もいるのは事実と認めた上で努力すべきであり、その一方でマイナスになる要素を選びつづけて一気に0点になるのは案外容易いように出来ているのではないかという話です。

 このツイートの通り、「努力しなかったせいでどうしようもなくなってしまった人」を描く作品が増えてきました。それは努力が上方向に報われにくい事に対するシニカルさは前提としつつも、一定の範囲にいる限りは大体同じぐらいの道具立ては揃えられてしまうという実感があり、それでいて下側に突き抜けたらオシマイというリアリティの共有があるからこそ、流行るのだと思うのです。


(中略)


 ここでは事故や大病や犯罪といってますが、そうでなくても無断欠勤し続けたり、借金をつくったり、反社会的勢力と絡めば簡単に没落します。それは年収が100万高いとかそんな程度の事は関係ありません。なので、それを回避するための行動についてまで宿命論を信じてシニカルに捉えるのは難しいという実感が共感を得やすいのです。


階層別結果平等という宿命論と没落への恐怖の共有。それを回避するためのノブリス・オブリージュ - 太陽がまぶしかったから階層別結果平等という宿命論と没落への恐怖の共有。それを回避するためのノブリス・オブリージュ - 太陽がまぶしかったから

 「『人生のネタバレ』や『宿命論』というのに、未来に対して不安ばかりじゃないか?」という指摘は一方では正しいのですが、「最高得点が朧気ながら見える」というのが宿命論の実際だと考えています。他人の人生から「ハッピーエンドのその後」を知りすぎてしまったが故の弊害です。その一方でアトラクタフィールドによって何をしても死ねないみたいな厨二病設定は現実には適用できません。

外部環境への上方硬直性

 この事について、『http://possession.hatenablog.com/entry/2013/11/13/234023』を読んで、「外部環境の上方硬直性」と考えれば良いのかもしれないと思いました。「硬直性」というのは本来的には「賃金の下方硬直性」「価格の下方硬直性」のように、本来下がるべき価格がなんらかの理由で下がらないといった意味で使われる事が多い言葉なのですが、リーマン・ショック以降の手取り給料はや税引きの小売価格は「上方硬直性」を持ってしまったと言われています。

 小売価格には弾力性がほとんどない状況があるため原料費の高騰に対する価格転嫁は難しい状況にあります。かといって一旦雇い入れた人員の賃金は依然として下方硬直性があるため、必要な時のみ非正規で雇って定期的にリセットする手法が取られることになりました。それに加えて消費者が気づきにくい品質(食品であれば容量)を下げたり、徹底的なコストカットをしているのは周知の事です。

 雇い止めを頻繁にするような前提が報道されれば、消費者マインドが価格の弾力性を認めない傾向を強めてスパイラルを加速させるのは当然なのですが、もう今更の話です。このため「ここから先の最高得点」において「かつての普通」を求める事が高望みとなる場合が多いのが実情です。

 『普通のダンナがなぜ見つからない?』という本では「普通の男は、0.8%しかいない?」とし、収入・容姿・身長・趣味・飲酒・喫煙・実家の状況などにボーダーを設けて絞っていったら「普通」の人なんて全然居ないよと説いています。なので「普通」ってのはむしろ褒め言葉にすらなってしまったぐらいにインフレーションを起こしているのではないかと思うのですが、あくまで「普通」なのでそれでやっと平常の幸福感です。


 この事象を考えるに、幸福に達する為に必要な「普通」のレートはインフレーションを起こしているのに、「普通」の供給はむしろ難しくなってデフレーションを起こしています。この状況はスタグフレーションと言われ、生活者にとっては最低の状態です。これは労働環境においても「責任範囲は際限無く増えるのが『普通』である一方、給料は据え置きで税金や社会保険料が上がる」といった形で現れています。


「普通」という概念のスタグフレーションと「普通」ハラスメント - 太陽がまぶしかったから「普通」という概念のスタグフレーションと「普通」ハラスメント - 太陽がまぶしかったから

下方硬直性としての「教養」

 そして外部環境が上方硬直性を持っているからこそ、内部環境においては下方硬直性を持つべきなのだろうという事に気づきました。

教養というものがどういう場面で必要なのかという答えを考えていて、それは、「階級転落に対する下方硬直性」だと言っていいんじゃないかと思った。


(中略)


自分の周囲の人を見ていても、どんどん社会の底に沈んで行ってしまう人もいれば、あるところで踏みとどまって、金はなくても清々した生活を送っている人もいる。その何が違うかと言えば、家庭に教養というか文化力があるかないかの違いだと思った。教養的基礎のある家庭で育った子は、家は貧しくても学習意欲があるし、奨学金や留学制度などさまざまな手段を使って自力で道を開いていこうとする力がある。「襤褸は来てても心は錦」ではないが、「教養」というものはもともと下層階級のものではないので、貧しくても新聞を読んで社会を論じる力を持っていたり、政治家を批評したりする力を持っていたり、良いものを見る目を持っていたりする。だからある程度以上身を持ち崩すことが少ない。そういう家庭で育った子供は、そこから再び抜け出して日の当たる場所に出ていく力を育てやすいのだ。それが「階級下降に対する下方硬直性」ということの意味だ。


木枯らし/「まど☆マギ」と「進撃の巨人」をなんとなく比べてみる/教養の持つ本当の意味の一つは、階級転落に対する下方硬直性にあるのではないか

 自分の取りがちな手は「切断処理」でした。うまくいきそうにないものを認識から外す事で、うまくいくものだけを伸ばすようにしていた所があります。良く言えば「選択と集中」ですが、それは選択できるだけの残余が当時は見込めたから問題が少なかっただけという結果論であり、いつまでも続けられるものではありません。

 外部環境における上方硬直性と没落の恐怖においても、基準値を低く持ったり、フィルタリングをすることで「人工的環世界」を心地よくチューンして夢遊病者として生きることはできるだろうというタカの括り方をしていたところはあります。すでに「普通」の基準を下げて生活する事が意識づいていますし、まあ相応の実績の思い出はあります。これは外部環境への相関係数を著しく下げようとする意志力です。

 その一方で引用文のように使われる「下方硬直性」という言葉には外部環境の下降に立ち向かう「抵抗」の意味が読み取れます。それは本来下がるべきなのに「なんらかの理由で下がらないための力」であり、その力が強まれば外部環境の下落を上回る可能性すら内包しています。つまり外部環境の相関係数は認めた上で、別の力を発生させる意志力があるのです。

下方硬直性を得るための切断処理と抵抗

 この二つはある時点においては似たような結果となるのかもしれまえせんが、アルゴリズムとしては大分異なります。前者の方が楽ではありますが、相関係数を下げようとしても出来ない部分というのはきっと出てきてしまいます。その一方で外部環境とは別の力を持とうとすれば、突き抜ける力を持てるかもしれませんが世界への絶望を深める可能性もあります。グラフを描くべきか。

この漫画の主人公リクは最貧のスラム街出身で、もちろん教育など受けたことはない。だが「正義の信念を持った大人(おじさん)に出会い、短い期間ながら大事に育てられ、その教えを聞き、生き様を目に焼き付けた」という経験を持つ。


それゆえに生きるためには他人を傷つけ、蹴落とすことが当然とされる刑務所空間に落とされても、「おじさん」に恥じることはすまい、と優しさを保ち続ける。そこでは、おじさんが「人間性の下降」に対して、「下方硬直性」が働いている。


この言葉を使うことが適切かどうかわからないけれど、他の人間が過酷な環境において「適応」という名の病にかかっていくなかで「健全さ」が保たれるような感覚。もちろん「健全」であることが正しいかというとそうでもない。フィクションでなければこのリクは途中で死んでしまうであろう確率が高い。いくら「健全」でも死んだら意味が無いと考えたってちっともおかしくない。ただ、この「健全さ」には、あこがれを感じる


教養と健全さ - それはそれとしてとりあえず教養と健全さ - それはそれとしてとりあえず

 結局のところで終末医療か根治治療かという話に戻るのですが、この「健全さ」については多少なりとも求めた方が幸福に近いのかもしれません。少なくとも他者の「健全さ」を積極的に評価したいと思ってはいます。もちろん実際にはそう簡単な話ではないいので、適度なカーニヴァルを自身に課す事になるのでしょう。何かに偏る事もなく。

 たしかニーチェの警句だったと思うのですが、「善も悪も永遠には続かぬものなのだから、せめて善き思い出として善行を為すがよかろう」という言葉を時々思い出しています。それもまた終末医療の一形態なのだろうと諦観しつつも、暇つぶしの質を上げるための方法論を考えるのも良いのかなと思いつつもあります。