太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

15年ぶりに村上春樹の小説を読んだ僕は。

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photo by tami_chan

1

「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」

 僕が中学生の頃に通っていた古本屋の店主はそう言った。僕がその本当の意味を理解できたのはずっと後のことだったが、それが村上春樹からの引用である事を知ったのは比較的早かったと思う。

 小遣いの範囲での娯楽を考える時、古本が選択肢として挙がることが多かった。軒先に無造作に置かれた100円の新書や文庫達への親近感もある。

 少し汚れた本を買っていっては家や学校で読む。いまさら10年前の時刻表トリックを知ってどうなるものでもないというのに。それでも面白くない本なんてない。これは一般論だ。

 15歳になる頃、僕は『1973年のピンボール』を買ってきた。ちょうど『DIGITALPINBALL ラストグラディエーター』というゲームをやっていてピンボールに入れ込んでいたのだ。

 そこに出てくる「鼠」が『風の歌を聴け』に出ていた事を知るのは少し先の事になる。我々は断片的に認知した事で何かを知った気になってしまう。これも一般論だ。

2

 この話は2013年の7月29日に始まり、いつ終わるかは分からない。

3

「村上春樹の本なんて・みんな・糞食らえさ。」

 僕はカウンターに両手を付いたまま憂鬱そうに怒鳴る。

 かつて小説家を目指していたような人間が言う凡庸な言葉。シェイクスピアは「人生はしょせん歩く影、憐れな役者」とマクベスに言わせたが、退屈な配役を割り振られた人間は退屈な台詞をリフレインする事しかできない。

 インターネットを見れば「村上春樹の本を読んでみた」「好きな作家は村上春樹」「ノーベル文学賞候補の村上春樹」「村上春樹のオススメ小説10」。村上春樹。村上春樹。村上春樹。

 同じ軒先にあった西村京太郎や赤川次郎の名前が出ることは滅多にないが、村上春樹は今の時代だから目にする機会が多い。どちらかと言えば村上龍の方を読んできた。でも彼らの小説は暴力や性の描写が生々しすぎて苦手になっていった。人が死んだり、女と寝たりしないものの方が良い。鼠が書く小説のように。

4

 間違えて男子高校に進んでしまった僕は、大きな断絶を味わうことになる。そもそも女子なんていないから間違いなんて起きようがない。そこから世界は分化し、彼らの物語は全て絵空事になった。ハルケギニアに召喚される方がまだリアリティがある。

5

 だんだんと通わなくった古本屋はいつのまにか取り壊されていた。原因は近くのブックオフだろう。そのブックオフだって、電子書籍を買うようになってから殆ど行かなくなった。

 村上春樹の本は電子化されない。それはひとつの障壁になっていた。引っ越しを境に手放した紙束をまた買い直したくはない。本棚を空けるためには手放す程度の存在であったし、そうしなければならないと思っていた。大人になりかけの頃はしばしば「大人になる」ってことを勘違いする。これも一般論だ。

 時はあまりに早く流れる。

6

「ねぇ、村上春樹の新しい小説は読んだ?」
「最近はあまり読めてなくてね。」

 文学青年然とした振る舞いをすれば、それ相応の教養を期待される。オタクならオタクの教養。サブカルならサブカルの教養。時折出されるクイズに答えられなければゲームオーバーだ。そんな道具に使われた事をひどく嫌悪した。

7

 金曜日に仕事が終わったら1時間以上かけて家に帰る。ここのところ週末に予定を作らない事を徹底している。ひとつは体調を崩していた事もあるが、もう少し自分の事を考えようと思っているからだ。

 その中のひとつに村上春樹の本を読み直す事があった。正確に言えば未読本の方が多いから、読み直しですらない。帰り道に中学の頃に居た街とは別のブックオフに寄る。105円で売っていた本を何冊か持ち帰った。

「それで読んでみたら、やっぱり面白かったって話かい?」
「うん。」
「退屈な話だね。」
「そういうもんさ。退屈な配役には退屈な台詞しか用意されない。」
「ここから先は誰かの書評をコピー・アンド・ペーストすれば成立するから打ち切るかい?」」
「やれやれ。」

風の歌を聴け (講談社文庫)

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