太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

過去の自分の特殊性で食べながら、今の自分をコモディティ化したいという自意識こじらせについて

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自分をコモディティ化したい欲望

 『「きっと何者にもなれないお前たち」と告げられたい〜理想化自己対象としての「若者の特殊性」 - 太陽がまぶしかったから』では、「若者の特殊性」を理想化自己対象とする効率を上げるための手段として、「自身の普通さ」を強調すると書きました。敢えて自身を「普通」と置くことで、相手の「特殊性」の絶対値が低くても差分が大きくなるという考え方です。

 それ加えて、私自身のスタンスとしては、あらゆる文脈において「代替可能性が高い状態にしたい」という望みがあります。「私が死んでも代わりはいるもの」という状況を作らなければ、そこに依存したり/されたりという可能性があって、互いの自由が脅かされますし、重圧を感じてしまうところがあります。そんな事を言う時点でメタな個性アピールではあるのですが。

代替可能性が低い事への重圧

 仕事でもそうです。良くも悪くも「私がいないとダメ」という状態になりがちですが、すごく負担に感じます。それは別に能力云々とはそこまでは関係がなくて、単純に「最低限の人員でなんとかしろ」っていう前提においては、誰が欠けても程度問題でまずいのです。抱えている仕事に特殊性があればなおさらです。

 それによって無理矢理にでも身体を動かしているうちに心身を壊してしまう人もいますが、全員が違和感に気付いていたとしても、余裕がない状態では「しばらく休んでよいから」とは言いにくいものです。もちろん、上に掛けあったりもしますが、本当にパタンと来なくなる状態になるまで交代要員を探し始めすらしない状況ばかりでした。パタンと来なくなってしまえば半年近く休職したり、本人にだって後遺症が残ってしまうかもしれないから避けたいのに、予防的な動作は難しいというのが組織の論理でした。

代替不可能性の利得

 そして「最低限の人数」がひとりが欠ければひとりあたりの負担量が増える空白期間が出来てしまうので、連鎖反応を引き起こしかねません。欠けた人員に特殊性があればあるほどこの期間が長くなったり、代替人員が来てもちゃんと戦力になるまでに時間が掛かるので、その連鎖反応の可能性をさらに高めます。その事に負担に感じたり、無理矢理我慢してしまう事が多かった結果として自律神経失調症を悪化させてしまいました。

 もちろん、だからこそ相応の給料が貰えている状況もあります。むしろ、それがないと一般常識が欠けていたり、身体がそこまで丈夫ではない自分がまともに働き続ける事はできなかったでしょう。ジャッジする側に正確な理解が難しい内容になるほど「言い値でいいね!」をしやすくなるという構造に救われてきた側面も正直なところあります。

コピーロボットを作っておくことの是非

 その一方で過去にはマニュアル化やツール作成を多くしてきました。いくつかの業務については、それが実現できており、他の人がやっても、ほぼ同じ成果物が短時間に出せるようになっています。オペレーション自体は高校生アルバイトだって出来るぐらいです。「中身を正確にメンテナンスできる」というレイヤーでは私だけだろうという特殊性はあるものの、普段の作業については相当に無個性的な話ですので、ぼんやりモードに入ってしまっても業務が完了できるのです。

 つまり「今の自分を無個性化しながら、過去の自分の特殊性に喰わせてもらってる」みたいな状況があります。それは自分自身の労働力をセツヤクエストするための仕掛けでもあったのですが、「私が死んでも代わりはいるもの」といった状態を作っておきたいからという側面も生まれてきました。

 このことは代替可能性を高めておきながら、その代替可能性を高められるという代替不可能性によって利得を得ているという構造にありながらも、その一方で「高める」必要性がなければ単純に代替可能性が高い人員として、もっと安い賃金で雇った人に交代され得る脆弱性を敢えて作っているという状態でもあります。

過去の自分の個性で飯を喰う

 「ブログはスタンド」も同じ構造にあります。『いまさらだけど梅田望夫の『ウェブ進化論』って正しかったよね - 太陽がまぶしかったから』では「ネット上に作ったブログやECサイトは現実世界の私が何をしてようが独立して動き続ける」という事を書きました。

 これだって「最初の文章を作った過去の自分が特殊であるほど、今の自分が普通であろうがなかろうが関係なくなっていく」という話です。普段の私はそれなりに忙しいので、日中にブログのことなんて考えてられません。それでも活発な議論が行われているのは日中だったりするわけで、知らんうちに炎上してて、それらが有用な意見や広告収入に繋がっている事もあります。『ブログ飯 個性を収入に変える生き方』のレベルにはほど遠いですし、するつもりもありませんが、限定的な範囲においては確かに出来てしまっているという実感があります。

 そうなると、日中の自分がどんだけ無個性的に動いていようが関係ないため、無個性で代替可能性の高い人員になることができるようになります。その絶対値を低くするためにこそ、セツヤクエストにおいて「私の節約術」と「私のマネー術」の両輪を動かしているのでしょう。

不労所得を作ることはコモディティ化したい欲望とマッチする

 ここまで書いた内容によって、自身のコモディティ化欲望とそのために取られているソリューションの構造が明らかになりました。

欲望

  • 特殊な人を理想化自己対象として自己愛の補充に使いたいから、私自身は無個性でありたい
  • 無個性であることによって代替可能性を確保して重圧から逃れたい

課題

  • 無個性的であるほど、代替可能性が高いたために労働市場においては買い叩かれる可能性がある
  • 生きていくにはお金が必要

ソリューション

  • 「不労所得」に近くなるほど、「今の自分」の状態は関係なくなる
  • よって「過去の自分」に個性を発揮させつつ、支出を減らすことによって「今の自分」が無個性でも問題ない状況を作る

自意識こじらせおじさんの叫ぶ「普通になりたい」は「今の自分が普通ではない」というこじらせを含んでおり、本当は無個性なのにミサワ顔しているのに過ぎない

 「きっと何者にもなれないお前たちに告げる」と安全に言われるためには、ここまでしないといけないのか・・・って事を考える程度には自意識をこじらせたおじさんが、世界の中心で無個性を叫ぶのです。あ、「こじらせ女子」の流行語大賞へのノミネートおめでとうございます。Googleで「こじらせおじさん」って検索するとうちのブログばかりが・・・。

 なんで代替可能性を高めたいのかってのを掘り下げると、重圧以上に『「普通」という概念のスタグフレーションと「普通」ハラスメント - 太陽がまぶしかったから』や非依存型性愛の話も関わってきているのではないかとも思うのですが、それはまた別途書きましょう。そんじゃーね*1

コモディティ化市場のマーケティング論理

コモディティ化市場のマーケティング論理

*1:無個性な締め。