太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

若者よ、目覚めるな!〜マルクスの亡霊とサイレントテロ、または普通ハラスメント

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photo by Jose Téllez

マルクス主義の亡霊とサイレントテロ

 『現在のムダな不幸を思えば、マルクスは正しかったのかもしれない - 寿司はえんがわ。~Engawa R0tMG ブログ~ 別館』を読みました。マルクス主義って言葉を出すと革命家としての彼や、その後のソ連崩壊などが想起されますが、マルクスの資本主義への批判内容そのものから得るものは多々あったように思います。まぁカジッただけですが。

 確かに「供給に追いつけるほどの需要の発展」について、日本ではもう難しいでしょう。セツヤクエストとしてやっているような事もそれを加速しています。別にそれと意識しているのではないのですが、私の考えている事は「サイレントテロ」の扱いをうけることが多々あります。サイレントテロとは以下の通りの意味合いです。

現在の社会状況、または自らの置かれた社会的状況に対して悲観的観測を抱きながら、それを「現実」として受け入れようとするときに起こる人々の行動(ある意味で反動)。


その「悲観的状況こそが「現実」なのだ」と諦観する、一種の「絶対観」的な「現実肯定」に基づいて、「スロー消費」「非婚・晩婚化」「少子化」「NEET」「ひきこもり」「自殺」などのように、さまざまな社会活動――消費行動や人間関係、ひいては自らの生存そのものを消極化、縮小、または消滅させていくこと。


これらの消極的かつ間接的な暴力によって、意図するとせざるとにかかわらず、「見えない社会の空洞化」が引き起こされる。現在の社会に対する消極的抵抗、あるいは沈黙の異議申し立てであるといえる。

 もう少し分かりやすく言うと、ある年代の人は可能な限り結婚して二人以上の子供を生まなければ数十年後に年齢構成比が深刻なレベルでおかしくなるのは自明なわけです。年金や社会保険が構造的に破綻しかけているのは報道の通りですよね。そんな中でも「結婚しない」「子供を作らない」と明言することは「長期的な自爆テロ」と考えることもできるという見方です。

 労働や消費の放棄や社会との関わりを減らしたいという欲求も経済成長を前提とするなら同じです。「社会としてのあるべき姿」に最適化すると生きづらくなるからオルタナティブな生き方を実践するほど、社会に反旗を翻していると全体主義的な思想からは捉えられるわけです。実際問題として全員がプア充になったら日本は終わります。節約ばかりしてる場合じゃありません。

 なのでマクロ経済としての悪影響について突かれると「確かに〜」とは思います。マルクス主義も同じです。でも過去の資本主義的な「普通」について中途半端かつ盲目に信奉する人が、その事について折伏したがるのは辟易とします。中学校の合唱コンクールで歌わないと風紀委員が泣くみたいなあーあ感を受け流すのは「きっと歌った方が全体から見れば正しいのだろう」と理解できるからこそ面倒です。

普通ハラスメント

 特に仕事上の関係があると「残業したくない」「体調が悪いから有給を取りたい」「割り勘で不愉快な思いをする飲み会に行きたくない」といった私にとっては「普通の事」について「普通ではない」というイヤミをネチネチ言われるような「普通ハラスメント」を受ける機会が多いものです。ましてや結婚しないとか、家庭の事情にまで踏み込む事が「コミュニケーション」だと思っていたり。それこそ「普通」の感性とは思えないんですけどね。

 「普通そうだろ」「普通そうは思わない」と独自倫理を提示するパターンです。私が結婚をしないで仕事辞めようってなると「普通に家庭を持ったらそんな事を言えない」って引き止めるのは二重に間違っています。家庭を持たないなら出来るって事ですし、もう30を超えてるのに「異常」だと説教される謂れもありません。仮に「異常」だと認めたところで、今から婚活でもしてまた絶望を深めるのか?って話です。


 「お前が『普通』と思うなら、『普通』なんだろう。お前の中ではな」と思いつつも、感じなくて良い劣等感を刺激するような事を言われて気分が良いものでもありません。正論ハラスメントとやモラルハラスメントとはまた違った「普通ハラスメント」とでも言うべきものです。

 社会や組織の論理に従わないことに対して「サイレントテロ」だとか「普通ではない」というレッテル貼りをして矯正や否定をしたがるけですね。彼らは「私ならそうはしない」を絶対的な基準にしており、かつ自己の状況を正当化する認知バイアスによって「私は間違ってなかった」と自身に言い聞かせるかのように「そうではない他者」を否定しはじめる事が多いように思われます。

何か好きなもの、自分が気に入っているものについて説明するとき、それの対照のものをdisる人っていますね。
あれ、止めませんか。


例えば

貧乳も良いよねという説明のついでに巨乳をdisる
料理の楽しさを説明するついでに外食産業をdisる
結婚の良さを説明するついでに独身をdisる
みたいなやつ。

 こういうのあるよねって思います。他者と自分の思考回路の区別がついてない幼稚さは前提としつつも、全体主義的な軸を基準にしておけば確かに楽だったのだと思います。だからこそ、本質的にすり合わせるための筋力を鍛えられなかったのかもしれませんけれど。

若者よ、目覚めるな!

 でも、そもそも全員がサイレントテロ的になってしまったら困るという大前提があります。なので、こういう折伏ボランティアがいるというのは必要悪なのかもしれないと一周回って思えてきているところもあるんですよね。私はどうせ受け流すけど、受け流せない人も一定以上いないと社会が成り立ちません。

 そもそも、「どちらが合うか?」という話であり、「どちらが良いか?」という話になると同程度の適合度合いなら全体主義的な選択をしてもらった方がきっと社会貢献になるのでしょう。その意味では「特に主張がないならこっち」っていう啓蒙をしてもらった方が私個人の継続性が高くなるのかなーって思う事もあります。その意味ではテロリストどころか社会全体の事を考えているって話ですよ。寄生するつもりなら寄生先を太らせる努力をしないといけませんしね。若者よ、目覚めるな!

若者よ、マルクスを読もう  20歳代の模索と情熱 (角川ソフィア文庫)

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