太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

コミュニケーションの「狩猟」と「貯蔵」について

photo by Thomas Hawk

はてな忘年会

 今日は忘年会なので、先に日記を書いておく。言い出しっぺの方が来れないという事もあって、かなり内輪ノリに近い形になりそうだけど、初めて会う人もいるので楽しみ。

 この時期の予約は大変である。大々的に告知して本当に8人+直接連絡とかになったら店ないぞというのもあってちゃんと告知できなかった。「幹事ができる人間はモテる」とか言われているけど、参加人数が不定かつ10人以上にもなりえる呑み会を当たり前に取り回せる人は素直に尊敬する。

 昨日は仮眠のつもりが深夜になっていて、朝までもそもそしつつ二度寝したら10時。健全な休日。昔は休日だろうが仕事や遊びの予定が入っているのが当たり前だったけど、今は憂鬱になる。「約束を破りたくない」という意識だけが先行してなんとか社会性を保っている。それはきっと今日も同じなのだけど、始まってしまえば大抵は楽しい。

コミュニケーションの「狩猟」と「貯蔵」について

 コミュニケーションの「狩猟」と「貯蔵」について考えたことがあった。結論から言えば、「人それぞれ」なのだけど、私は完全に「貯蔵」型の人間である。ルソーが「退屈」を語る時に「彼は兎狩りをしたいのであって、兎肉がほしいわけではない」と『暇と退屈の倫理学』で引き合いにだされるが、じゃあその兎肉は私がもらいたい。

 毎回「狩猟」に行くのは非常に辛い。結婚すら「貯蔵」の意図で考えていた。しかし、貯蔵すべき事物の良し悪しの判別が誤っていたり、尽きたり、失敗するのが当たり前の状況においては「狩猟」の腕と、それ自体を楽しめる精神状態も必要になるのだろう。または絶食化すること。

「これが出来れば安泰」に固執しない

 「新しい事を始めるのが苦でない」「短期間でそこそこの成果が出せる」というのは嘘で、本当は「新しい構造に見えない」ものを敢えて選んでいる。別に上達が早いわけではなくて、既存のノウハウ蓄積がそのまま使える事が殆どなのだ。「ループ」を指向するのもその辺りに動機がある。

 しかし、これも良し悪しであり、自分が本当に苦手なものを覆い隠してしまっている。エンジニアにとっての老害化は「これが出来れば安泰」というものを見出してしまってから始まると言われているが、そういう部分はある。結局のところで、「◯◯すれば安泰」みたいなものを信じて、そればかりを指向していてもいつかは壊れてしまうのだろう。壊れる前に死ねればよいのかもしれないけれど、それは賭けだ。

 今日の昼ごはんは「貯蔵」していたレトルトカレーとごはん。家から出たくない時に重宝する。今の自分にとっては買い物にいくことすら「狩猟」なのかもしれない。