太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

俺の屍を越えて行け

人間失格 (集英社文庫)

破滅願望と物理的な現実

 明日から仕事である。もっと休んでいたいが仕方がない。別にここに書く事はないが、結局のところでサラリーマンとしての自分も、それはそれでなんとかやっていくのだとは思う。破滅願望を開示することはあれど、物理に表出する部分では保守的な事には変わりない。

 『文豪の食彩 (ニチブンコミックス)』では太宰治の妻が書いた『回想の太宰治 (講談社文芸文庫 つH 1)』を紹介している。そこには、意外に吝嗇な小市民としての太宰治が描かれている。作品や心中事件のイメージから破滅的な性格だと捉えられがちであるが、それは作品を売るための虚像であったとも推測されている。

 例えば自伝的小説として読まれる事の多い『人間失格 (集英社文庫)』において「子供の頃は食事の時間が一番の苦痛だった」という事を書いておきながら、実存としての太宰は「材料も調理方法も(故郷である)津軽風が最高」と婦人に言っていたという。小説をベタな実存として読むと見誤る部分が多い。

実存とエクリチュールの重ねあわせ

 もちろん婦人の見方は「強盗事件の犯人が家ではハムスターをかわいがっていた」という話と大差がないのかもしれないけれど、実際にはやはり小市民でありながら、頭の中の生活と時々交わってしまったという事なのではないかと思う。

 実存とエクリチュールは必ずしも重なり合わないが、5%ぐらいはユニゾンのように重なり合う事もあるし、その瞬間に「戻れない楔」を打ってしまえば、それは実存にすり替わる。「僕」こそが『自己愛のリスク分散と死体の山、または12人の妹がいれば1人死んでも悲しさは12分の1で済むのか問題 - 太陽がまぶしかったから』における「ありえた自分の死体」になる場合もあるということだ。

どっちに言ったら良いかなんて分からない

 どっちに行ったらよいかなんて、わからない事のが多いけれど「かならず獲って帰ってくる」って気持ちを大切にして出港しているという気概が語られている。これは漁師に限らず、そうだろう。情報は色々あるけれど正解なんて分からない事のが多い。それでも、それなりには本気にならなければさらに成功確率は下がる。だから我々はアイロニカルに没入していかねばならない。

こっちはダメだったという過程の羅列

 『はせおやさいさんのブロガー人生相談イベント『池田仮名さん、長文ブログを書く理由は、なんですか?』オフレポ - 太陽がまぶしかったから』などでブログには失敗談も書くべきだとよく言うのだけど、偽善めいた事を言えば、「こっちはこうしたらダメだったよ」っていう報告は、それ自体で「獲って帰ってくる」に成功しているのではないかと考えているからだ。

 それには「生存バイアス」とは逆の「死亡バイアス」が掛かっているのは前提として、そもそも論理的な死者が語れる状況というのが、素晴らしい時代なのだと信じている。「敗軍の将は兵を語らず」というが、それこそが失敗の本質を隠してきたというのは周知の事実である。

 物理的な没落を回避しながらこれは成功だった、これは失敗だったと報告する。それが集積していくうちに人生のTASが作れるのではないか。現在においては「ビッグデータ」としてはまだまだ非力すぎても数十年後はどうだろうか。「ありえた自分」は死んでも「実存」は死なないで、私や他者の死亡確率を少しだけ減らしてくれる。

 それこそが「人生のネタバレ」による虚無主義を生み出してしまう部分はあるのかもしれないし、そんな蓄積データこそが、役に立たたない「魚群探知機」になってしまうのかもしれないけれど、それはそれで仕方がない。その屍を乗り越えるのは私ではない。俺の屍を越えて行け。

文豪の食彩 (ニチブンコミックス)

文豪の食彩 (ニチブンコミックス)