太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

承認欲求と包摂欲求についての一見解。または「あ、承認とかいらないんで、とりあえずお金下さい」

photo by @Doug88888

社会的包摂について

 最近流行っている「包摂」という単語について、おそらく「社会的包摂」の事として議論が進んでいってますが、「包摂」そのものには、「含まれる」という意味しかありません。「社会的包摂」は「社会的排除」との対の概念であり、失業(非正規雇用)や疾病や国籍などの原因によって社会の構成員として享受できるはずの公共サービスを受けられない状態を解消することを指します。簡単に言うと「社会の正当な一員に含まれるようにする」という事ですね。

 これ自体は個別の欲求ではなくて、憲法に基づいた福祉政策として当たり前にしなければならないはずで、そのカウンターとして右翼的な活動があるという認識です。「生活保護は甘え」「選ばなければ仕事はある」「自己責任」「外人のバイト」「美人すぎる◯◯」みたいな事を留保なく言えてしまう「素朴な社会的排除者」とでも言うべき価値観が一定の割合で浸透しており、むしろ「社会的排除欲求」の方を敢えて命名して、無意識的な差別主義を自覚してもらう必要があるぐらいだと考えています*1

精神的な社会的排除の種類

 で、どうも「承認」の話と組み合わさっていて、「社会の正当な一員に含まれる」に対して、精神的な問題を含めると話がややこしくなってきます。

 基本的な社会福祉政策として就労支援や差別撤廃などを行うのは当然ですし、少子化対策の一環とはいえ『婚活イベント、国が支援 少子化対策で14年度から - 47NEWS(よんななニュース)』のように婚活支援などを行う流れにすらなっているのですが、それでも寂寥感が解消されない場合のが多いでしょう。ここの寂寥感はもちろん複合的な問題ではあるのですが、大きく三種類あって、それに応じて問題の範囲が変わります。

  1. 福祉政策が限定的であるから現実的にリソースが不足しており、「社会構成員として認められていない」という感覚 → 社会からの疎外
  2. 国からは社会構成員として認められたり、建前としてはモラルが浸透しても、差別的な扱いを受けるのは変わらない → コミュニティからの疎外
  3. 客観的には量的に足る福祉があっても、満足できず、自尊心が保てない → 自己疎外

 3は基本的に社会的包摂の範囲には含まれませんし、2に関しては個別判断をせざるを得ない現状があるもののと認識しています。教育政策に盛り込むのは分かりますが、ある程度の年齢になった人の心を変えるのは現実的には困難であり、明白な事案に関してのみ個別の刑事罰や訴訟をしていく流れにせざるをえないでしょう。

包摂欲求とは

 先の「包摂欲求」について言うと、2の部分について、「あるコミュニティの一員として認められる」という欲求と3の自尊心(を維持するためにも2の裏付け)が必要という事なのだろうと考えています。これはマズローのいう所属と愛の欲求であり、まさしく承認欲求に近い部分ではあるのですが、コミュニティの性質によってアプローチが異なります。

 コミュニティには「建前」があまり通用しないが故に、一芸に秀でないと認めないという世界観もあれば、同じ大学や同郷の出身だから多少おかしくても守るという世界観もあります。そもそも「ギルド」を始めとしてコミュニティとは半ば差別的なものであり、血縁関係や恋愛関係は最たるものでしょう。後者の部分は社会福祉がどれだけ浸透しても解消される見込みは殆どありません。これはゲゼルシャフトとゲマインシャフトの違いです。

テンニース(1855-1936)は、人間社会が近代化すると共に、地縁や血縁、友情で深く結びついた自然発生的なゲマインシャフトとは別に、ゲマインシャフトとは異なり利益や機能を第一に追求するために人為的にゲゼルシャフトを形成していくと考えた。

ドイツ語では、ゲマインシャフトは概ね「共同体」を意味し、ゲゼルシャフトは概ね「社会」を意味する。

共同体 - Wikipedia共同体 - Wikipedia

 ゲマインシャフト的な世界観においては、なんらかの能力による「承認」はあまり必要ありません。あくまで友だちとして一緒にいて楽しいとか、血縁関係があるとかです。それは能力主義社会においては批判されることですが、既にゲゼルシャフト的な世界観が浸透した「会社」などのコミュニティに属している場合において、ゲマインシャフト的なサードプレイスを求めようという欲求がでてくるものと考えいます。

 本来的なゲマインシャフトは「広く緩く」ではなく、『ヴェニスの商人 (新潮文庫)』における「兄弟盟約」などもっと狭くて濃いものです。僕の「(広く浅い)承認は別にいらない」「ネット上だけで承認されても一定の範囲でしか嬉しくない」という台詞はそこにあります。それなりにやりとりできる関係が数十人、友人が十人前後、恋人がひとりいれば充分すぎるわけです。恋人いないけど!

 「結合定量の法則」や「ダンバー数」などの問題があって、全員に公平に接するのは無理があるし、認識できない関係性はただの数字でしかありません。「ゼロで良い」という意味ではなくて収穫低減が起こる限界値は結構早いという認識です。それでもネットに書いているのは自分の考えに反応してくれる割合が例えば1%ぐらいだと仮定したら500人ぐらいに読んでもらって判断したいって感覚ですね。その辺は複合的な理由が色々あるのですが。「自分の考えを広めたい」欲求は低いので、わざと難しく書いたりもします。

排除されたくないという欲求

承認欲求というのは、出る杭化したい。特別扱いされたい。個性を尊重されたい、という感じ。
包摂欲求というのは、埋没化の希求というか、特筆するものが無くても認められるような穏やかな安心感がほしい、という感じ

私はどっちかというと「承認欲求」より「包摂欲求」が強いかな - お前のことが好きやったんや私はどっちかというと「承認欲求」より「包摂欲求」が強いかな - お前のことが好きやったんや

 ここでいう「包摂欲求」とは「所属したい」という欲求なのか、「排除されない」という欲求なのかといえば、僕の場合は後者に力点があります。一芸に秀でないと認めないコミュニティは、一芸ができなくなったら、どうなるのでしょうか。可変領域において「◯◯だから属せる」が明確化しているコミュニティに属すのは継続性が低いのですし、仕事やガチ目の趣味でお腹いっぱいという感覚があります。

 婚活が怖いのもそこで、例えば「年収が高いから」みたいな指標で結婚した場合において、なんらかの形で給料が下がったら途端に愛想が尽きる可能性があります。実際にはサンクコストや情というものもあるのでしょうが、固定領域に価値を置くか、明確に説明できない部分がないと、うまくいかない可能性を常に内包する事になります。

その承認はあんまり必要ない≒ちょっとはほしいけど

 なので「ブロガーとしての僕」みたいな虚像のみを見ている人と「お仕事以外」で関係するはちょっと辛いなぁと思うわけです。ゲゼルシャフト的な前提での承認を積極的に表現する人は、承認が消えた事も積極的に表現しがちでもあって、勝手に失望されている状況を見せつけられるのは、なんだかんだ言って結構傷付くんですよ。そんな「承認」は最初からあまり必要ないのに、ありがた迷惑なのです。

 例えばプスクリプトを公開すると、質疑応答やサポート対応を無償かつ懇切丁寧にするのが当たり前という態度で来られる事もあるのですが、こちらが苦労しても対応してもそもそもおざなりな反応をされますし、一時的に感謝されたりしても、上記のタイプの承認なので積み上がる事にメリットをあまり感じません。なので別に承認しなくて良いから『Amazon.co.jp』を下さいというスタンスなのです。それはラカンが絶対に治療費を要求した事に似ています。

 ちなみに社会的包摂において「◯◯でないから包摂する必要はない」という論理を使うのは(実情は兎も角として)基本的に許されない事ですが、コミュニティへの包摂において「◯◯でないから包摂する必要はない」は起こりえます。自称リベラルな人が、「あいつらは助けなくて良い」という言葉を社会的包摂の意味で言うのは結構マズイことなのですが、「あいつらは(敢えて我々が)助けなくて良い」という態度の問題はありえると判断しています。じゃあキレイ事を言うなよとも思いますけどね。

会社というコミュニティに属すること

 会社というコミュニティはメンバーシップ型とジョブ型が混在してて、これはそのまま、ゲマインシャフトとゲゼルシャフトに対応します。僕自身は普通の会社員という当事者性もあって結局の所で、個人個人の仕事の成果にムラがあってもある程度までは吸収しあえるメンバーシップ型を求めているところはありつつも、社員旅行や飲み会は否定していて、ないものねだりだというのも分かっています。『あ、「やりがい」とかいらないんで、とりあえず残業代ください。』の言い変えコンテストがあったので以下のように書きました。

 これはゲマインシャフトとゲゼルシャフトの関係性としては厄介で、ゲゼルシャフトとしての利益を上げるためにこそ、ゲマインシャフト的な情に訴えたり、やり甲斐や成長を与えるから給料は低くても良いよねっていう部分があって、要するにコミュニティの性質を顧客や経営者にとって都合よく使い分けているわけです。それは労働者にとっても良い部分がありつつ、損を受け入れている部分が多くなります。

 でも、それは「給料貰ってるから仕方ない」と、ある程度までは許せているし、そもそも普通に生活できる給料が貰えている時点で所属欲求的な承認は満しています。殊更に何度も褒めたりされるとゲゼルシャフトのための歪な期待が一緒になってる事が多くて、むしろモチベーションが下がります。一定の範囲までは悪い気もしませんが、基本的にお腹いっぱいなのです。成長は勝手にやるし、別に褒めなくてよいから、お金とか休みを下さいって話です。

包摂欲求に戻ると

池田さんは私がこの記事で「包摂欲求」と読んでいるものを「下位承認欲求とコモディティ化願望」と表現されていますね。

どうも僕は「下位承認」への欲求が強いようである。私なんかがいなくても良い世界。私の行動なんて何も影響しないという前提が浸透した世界を望む――それはもちろん「そうではない」という肥大化した自己評価に基づいており、自己評価は劣位感が引き起こしている。 http://bulldra.hatenablog.com/entry/2013/12/27/181238

これ、微妙に「包摂欲求」とニュアンスが違っていて面白いです。

私はどっちかというと「承認欲求」より「包摂欲求」が強いかな - お前のことが好きやったんや私はどっちかというと「承認欲求」より「包摂欲求」が強いかな - お前のことが好きやったんや

 この概念においては、別に一芸に秀でてなくても排除されない緩いコミュニティって良いよねって話であり、そういう「世界=セカイ」に属する事を望むという「願望」です。それは「ここではないどこか」でありつつ、その一方で「普通の友達付き合い」だったりもします。「何も影響しない」と表現したように、別に迷惑を掛けたいということでもありません。でも、だからこそ全員が所属できるわけでもありません。

条件付き友情が苦手だったんや

 「お前には有用性があるから友達」って態度で来る人が正直いって凄く苦手です。小学校の時に、たまたま家にゲーム機やパソコンがあったのですが、それを知った途端に馴れ馴れしくなってきた人に嫌悪感を抱きました。ちょうど経営者の都合の良い使い分けと同じですね。そういうトラウマもあって、真意は兎も角としてそっちの要素が強い承認はなるべくブロックしたいわけです。「本当の自分を見て欲しい症候群」まではないのですが、ドライな関係だけで良いじゃんって思うのです。

 「それ」がなきゃお前なんてなんの価値もないんだよって意見はひとつの見方としては正しいんでしょうし、キッカケになる事まで否定するつもりもありません。ただまぁ、僕の感覚としてはゲマインシャフト的なコミュニティに包摂される事を、既存のコミュニティとは「追加で」求めていて、それがコモディティ化願望にも繋がっています。サードプレイスではエンジョイ勢でいたいのです。「承認」だけじゃ食えませんし、いつ反転するかもしれないタイプの「承認」に不安を抱く必要性も感じません。

コミュニティの性質

 「ガチでやらないと趣味じゃない」って態度はコミュニティに対する排除主義者なわけですが、それが多数派であるコミュニティには別に所属したくないので結構です。まぁ、ガチを表明しといて社会的な指標ではどうなんだっけ?みたいな皮肉のひとつも言いたくなる事もあるのですが。そして他人にまでガチ勢であり続ける事を求めるなら「お仕事」なら頑張るので相応の報酬*2を寄越すか、「この人には承認されたい」と思われるような人になって頂ければ幸いです。それは逆も同じ事ですね。

 要するに言えば「あ、(あなたの)承認とかいらないんで、とりあえずお金下さい」には「一芸を求める」なんて事よりもよほど残酷な差別主義に基づいたゲマインシャフト的コミュニティが前提になっているわけで、それを正直に言うのは色々と角が立つという問題があります。

あ、お金とかスキルとかいらないんで、あなたの承認を下さい

 あくまで「欲求」であるから、実現性は別問題という前提にたちつつも、そのようなコミュニティに包摂されるかどうかは運の要素も大きいのでしょう。なのでそれを認識して漂流しつつ、非言語的な魅力をつけて統計的な可能性を高めてくのが近道でしょう。もちろん、キッカケとして言語化できるような魅力を高めるのも重要です。それは結局「一芸」じゃねーかってのもありますけれど。

 そうは言っても伊集院光が言う所の「マニアはいる」という言葉を信じて、無条件に見えるような関係性のコミュニティに「包摂され続けたい」わけです。色々な事を織り込んだ事は前提として「(あ、お金とかスキルとかいらないんで、)あなたの承認を下さい」と言い合える場所を探して、ここではないどこかへ。

あ、「やりがい」とかいらないんで、とりあえず残業代ください。

あ、「やりがい」とかいらないんで、とりあえず残業代ください。

*1:自覚的に差別してる人がいるとか、差別は悪い事なの?って議論はここではしません。

*2:アフィリエイトなんて割が悪すぎる。