太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

65%自殺したのか、65%他殺されたのか

ツァラ詩集

 自炊すれば安く済むのだけど、料理の手間や片付けを考えると億劫になっている。こう寒くて、腹が減っているとどこかに寄って行きたくなる。ちょっと前までは居酒屋やバーに寄り道するなんて事もあったのだけど、そういう事は殆どなくなった。ネットのおかげかと言えば、そんな事もなくて単純に怠くなってしまっただけなのかもしれない。

 怠くなればなるほど生活は安く上がる。65%自殺したのか、65%他殺されたのか。そんな事を追求するも怠い。

 何かを期待されても怠くなってしまうのけれど、故に「死ね」と言われるのも困る。僕が他者を否定する時は、他者が公共圏でのコンセンサスを経ずに公共圏を騙って何かを否定する事に対してであることが多い。不寛容である事に対する不寛容さについては群を抜いている。ここでいう「寛容」とは受け入れろということではなく、異教徒を見下しつつも排除しない最低限の倫理のこと。

 「いてもいいんだ」というために具象化した他者が必要なのかどうかについては留保しているのだけど、楽ではあるのだろう。怠いのでなるべく楽にしたい。別に人に認めてもらわなくても普通に生き続けるとは思うけれど、正当な理由で「居るな」と言われたところに留まる理由もないから、むしろ「居るな」と言ってもらった方が楽なのかもしれない。

 別にそんな事をされなくても、特に誘われてないところにまで分け入っていこうとも思わないわけで、そういう意味では最初に「いてくれ」と言われたから行くみたいなところもある。敢えて「いてもいい?」って聴いて、断られるのも、渋々了承されるのもつらぽよなわけで。本当に自己評価と他者評価を一致させるためには、境界線での試行が必要なのだろうけれど、そもそもが怠い。

 他者に対する「不寛容さ」について、結局のところで「自分がされて嬉しい事を他人にしよう」「自分がされて嫌な事は他人にするな」を根拠にしているのであれば、「世間」と「自己」との感性の一致を前提にしなければならない。しかし、その根拠が相対論になれば「世間とはあなたでしょう」という太宰メソッドにならざるを得ない。

 それに加えて多くの場合には公正世界信念における「Belief in immanent Justice」が絡まり、「自分がされて嬉しい事を他者にするのは正しい事であるのだから報われる」という信念を前提としがちである。この命題は幾つもの論理飛躍がある。世界が自己基準による公正を保つという前提は願望にすぎない。

 そもそも隣人と感性が違うからこそ不寛容になっているのではなかったか。結局のところで私こそが隣人よりも、世間であり、正義であり、普通だという不毛な宗教戦争をしているにすぎない。主語を大きくすればパラドクスの森に迷い込む。ありえない事には例外が発見される。互いに「私は嫌だ」とひとこと言えば済むのに。

 僕は不寛容が嫌だ。

ドン・キホーテ (まんがで読破)

ドン・キホーテ (まんがで読破)