太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

行為遂行的な呪詛はそれ単体でも実際に殺すことの5%ぐらいの効果はあるんじゃないかな

photo by Joriel "Joz" Jimenez

スピーチ的な文章を書くことと個人的な言葉を書くこと

 『スピーチよりも身の上話で(ブログの話) - tapestry』について id:luvlife さんと話していて、幾つか思った事があるので徒然と。

「べきの議論」と「あるの議論」

 「こういう人もいるよね」「私はこうだった」という「あるの議論」をしていると「故にこうあるべき」という「べきの議論」だと読み取って怒る人がでてくることがあります。これは「行為遂行的発言≒パフォーマティブ」と「事実確認的発言≒コンスタティブ」の区別がついていないということです。

 殆んどのスピーチというのは、最終的に「聴き手を動かす」ことを目的とした行為遂行的発言となります。「感動」とは「感じて動く」ということですが、こういった「べきの議論」には他者を動かすための論拠が必要であり、反証可能性の洗礼を受けて一定のコンセンサスが得られるようにする必要があります。「我思う故に正しい」では人は動きませんし、論拠が甘い事を書けば叩きにくるのはある種の必然です。

 また「あるの議論」についても統計データ等を用いた論文から個人的な感覚を綴ったも日記まで「主語の大きさ」に段階があって、主語が大きくなるほど「故に◯◯すべき」という結論を引き出させようという意図を(真意は兎も角として)感じる事が多く、スピーチ的になっていく傾向があるように思います。「個人的な言葉」というのはこれらに当てはまらない発話について当てはまるわけですね。バズワードで言えば「個人の日記」ですか。

個人の日記でも他人を動かしたい欲求は少しある

 自分自身がマイノリティなのかどうかはよく分かっていないのですが、少なくとも僕と同じ考えの人間が過半数を超えるような社会はむしろ嫌ですし、別に「善きこと」を考えているわけでもないので「べきの議論」をすることは殆んどないと思いますし、「個人的な言葉」を敢えて叩きにくるのは他人の領域でスピーチをしたがるちょっとおかしな人だと判断しています。

 「個人の日記」を公開する事になんの意味があるの? と思う人もいるのでしょうが「そう思う人も居る」が読まれることには一定の意味があると考えています。それらは「こういう奴もいるんだから、ちょっとは考慮すべき」という行為遂行的なメタメッセージになりえるのですが、それをどう受け取るかについて「すべき」よりは留保があります。お前の趣味なんて知らんがな(´・ω・`)って人のが殆どでしょう。それで良いのです。

 僕自身は『承認欲求と包摂欲求についての一見解。または「あ、承認とかいらないんで、とりあえずお金下さい」 - 太陽がまぶしかったから』に書いたようなスタンスが前提になっていて、対象外の人に余計なメタメッセージが届かないようにエントリを書くことがあります。ここは相互関係にあって、「それでも分かるぐらいの人とだけ話したい」という選別行為になっている部分もあります。全員と分かり合うなんて事については最初から諦観がありますし、メリットも感じません。端的に言って時間の無駄です。

 とはいえ、「炎上」は殆どしてないと思うのですが、これは「文脈を知らないと面白くない」はあっても「文脈を知らないと怒り狂う」はないようにしているつもりだからです。炎上しがちなブログはこの辺りのコントロールが弱いように感じています。もちろん自己評価と他者評価にはズレがあるかもしれませんが。

行為遂行的発言への短絡が怖い

 最近、危ういなーと感じるのが、書き手としてこれらの事について区別がついてなくて「私がこう思うから、世間もこうであり、こうすべき」みたいな形で、一個人の考えを敷衍して「べきの議論」に短絡してしまってるように見えるような書き方が増えたんじゃないかなという事です。ましてや他人を否定するために使うと残念な事になります。

何かを期待されても怠くなってしまうのけれど、故に「死ね」と言われるのも困る。僕が他者を否定する時は、他者が公共圏でのコンセンサスを経ずに公共圏を騙って何かを否定する事に対してであることが多い。不寛容である事に対する不寛容さについては群を抜いている。ここでいう「寛容」とは受け入れろということではなく、異教徒を見下しつつも排除しない最低限の倫理のこと。

 もちろん「こうなったら良いのに」という願望を書いてる場合も多々あるのでしょうが、寄与可能性を考えない方が不自然な書き方になっていれば、行為遂行的な期待を掛けているものと判断すべきでしょう。

行為遂行的な呪詛

 「Xだから殺したいと思う」ことと「Xだから実際に殺す」ことには大きな分断があるのですが、その間に「Xだから殺したいと思ったと表現する」という分断があります。行為遂行的な呪詛は実際に他者のXという行動を束縛しえるので、相応の論拠と責任が伴います。

 ここでも受け手の自由はあるのですが、『「老害の本質」は正しいフィードバックを受けられないまま固定観念を強めて他者に「呪い」をかけること - 太陽がまぶしかったから』で書いたような「別の権力」があると話がおかしくなります。「本当に殺される」かは兎も角として、条件付き承認によって離婚されたり、ハブられる可能性を提示されながら正当性をフラットに判断できるものでしょうか。居酒屋甲子園の件もそうなのすが、あれは経営者が怖いとか正当性があるとかそういう話よりも、「仲間からハブられる」という恐怖が源泉になるようにスキームが組まれているというのは指摘されている通りです。

 関係性が薄ければ殆ど影響はしないのでしょうが、「殆ど影響しない」とは「ちょっとは影響する」という事です。行為遂行的な呪詛も同じように、それ単体でも実際に殺すことの5%ぐらいの効果はあるのではないかと思うのです。この数値は感覚的なものですし、関係性による揺らぎがあるのでしょうが主語を大きくすれば数字が増えてしまうように思われます。

 「だから言うな」という事ではないし過剰な責任論を言いたいわけじゃなくて、行為遂行的な発言や主語の大きい発言をするなら本当に殺す時の5%ぐらいの覚悟を意識して発言「すべき」だと願っているわけです。それができないなら「個人の感想であり、効能を確約するものではありません」という形式をとって過剰なぐらいエスケープしておく方がよいんじゃないのかなと思うわけです。書いた事によって他人の行動を誤らせたり、嫌な気分にさせても殆ど責任はないけれど、全くないわけじゃないよっていう倫理観を個人的には持っちゃったんだから仕方ない(逃げ口上)

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