太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

生半端な知識や経験で作った独自理論を聞くのが結構好き

自分のアタマで考えよう

 「ゼロになったらなったで仕方ないと思えるものを賭け金にする」のは僕の根源的な動作原理である。生活費で賭け事をすればビクついて小さく勝って大きく負けるのが目に見えているし、ストレスを溜めれば普段の生活が高く付く。気軽に倍プッシュできるのは、既に回収しきったので恒産はゼロに戻っていいという前提が故である。いくつかの「元◯◯」は「現◯◯」に執着がなければ維持コストが掛からないし、剥奪するのは難しい楔となる。

 「100%の恋愛小説」や「100%のリアリズム」についての憧れもあるのだけど、あくまで「5%のうちの100%」しかできない。『所得控除が受けられる積立制度を全力活用して月15万円で暮らせば貯まるよ - 太陽がまぶしかったから』でもそうだけど、15万円の中で100%をしているからゲームになるのであって、全体がそれであれば悲壮感が出てくる。このような話は本当はすべきじゃないとも思うのだけど「100%の嘘」はなるべくつきたくない。

 本当の事をいえば僕はいつだって期待しているのだけど、5%のなかで配分を組めば、その中での余裕はあまりない。でも全体からみたら余裕があるので純粋な費用対効果を無視したようなこともできる。余裕があるから投げやりになっている部分と没入する部分が同居していて、貧血性の火花をともなった、なかば醒めた昏睡状態にある。

 ブログであれ、プロレスであれ、ダーツであれ、どうでもよいことについて生半端な知識や経験で作った独自理論を話半分で聞いたり、アイロニーを感じながらも大袈裟に語るのが結構好きだ。後から恥ずかしくなることを含めて。何かの正義や怨恨に目覚めて他者に害悪を及ぼすよりも、よほど安全だし、それなりに楽しい。100年後に解析される時だって、そういうメタな話のがキーになるかもしれない。

 現代社会って少し質の悪い「余裕」を持て余している人が多いのではないかとも思うこともある。そんな時に「もうちょっと、もうちょっと」と語りたくなるコミットの皮を被ったデタッチメントの運動量を発生させるような「罠」を用意しておくのは、ひとつの社会貢献であろうとも考えている。おっさんの床屋政談とか野球話とか、それだけで100%になってもダメなんだろうけど、そういうのを許容する余裕率がある社会のが僕は好きだな。

ニワカ雨ニモ負ケズ

ニワカ雨ニモ負ケズ