太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

亜細亜的功夫世代と「守りたいこの笑顔」欲求

photo by cine-asie

亜細亜的功夫世代

 『ハロー今君に素晴らしい世界が見えますか - 太陽がまぶしかったから』ではウータン・クランを引用したのだけど、考えてみたら僕の好きな諸々はカンフーに関連する名前が多い。アジアンカンフージェネレーション、ドランク・ドラゴンなどなど。

 実は小学生のときに少林寺拳法に通っていたので茶帯だったりもする。中国の少林寺と日本の少林寺拳法はまったくの別物だし、それらの人々も別にカンフーとは関係ないのだけれど。格闘技をやろうと思ったのは恐らく『ドラゴンボール』の影響で、空手や柔道じゃなくて少林寺拳法だったのは単純に家の近くに道場があったとか、そういうことだ。

武道経験と幻想強度

 ともかく、僕は少林寺拳法に通っていて、小学生のクラスの中ではそこそこ強かったという経験が中二病をこじらせた原因のひとつにあるのだろうと想う。エルハザードに召喚されれば真の力に目覚めるかもしれないと思い込んでいた。流石に高校生ともなればヤンキーと正面から喧嘩しても勝てないだろうというのは薄々勘付いていたし、省エネ体質になっていたのだけど、「俺はまだ本気を出してないだけ」という感覚。

 少林寺拳法は「体力的に劣る人でも活用できる護身術」として発展した側面もあって、「目潰し」や「金的」なども技に組み込まれており、倫理的躊躇を無くせばそれなりに使えることが幻想を強化していたし、その幻想が壊れるような事態も特に起こらなかった。

適切な負け方ができなかった

 だからなんだという話でもないのだけど、「適切な負け方ができなかった」と思う事がある。もちろん高校時代だってちゃんとした大会に出たら2秒でKOされたのだろうけど、大会に出なければ「無敗」という状態は維持された。それは武道に限らずしてきたことだ。

 絶対値で見れば中間値やそれより低いぐらいであっても、相手や場所や期間を選べばヒクソン・グレイシーのように無敗数を増やし続ける事ができる。全部を回避しているわけではなくて、大抵のカテゴリで「それなりの結果」までは出せてしまうという事が幻想をこじらせた。

全能感を維持するために「なにもしない」人達 - シロクマの屑籠

 本当は無茶苦茶に負けて、その上で「あの人に勝ちたい」と決意するようなプロセスが必要だったのかもしれない。でも僕自身の事であれば想像と実験と退屈で満たされてしまう。だからこそ、「ままならない」変数が欲しかった。

内気な娘のように、だれか自分より強い勇気のある人が自分を連れに来て、ひっぱって行き、いやおうなしに幸福にしてくれたらと、彼はじっとすわって待っていた。

車輪の下 (新潮文庫)

車輪の下 (新潮文庫)

 内気な娘のように、だれか自分に守られたい人が自分の元にきて、ひっぱって行き、いやおうなしに幸福にしてくれたらと、僕はじっとすわって待っていたのかもしれない。この劇的なボーイ・ミーツ・ガールによって守るべき姫ができれば頑張れるのかもしれないという論理は本質的に『車輪の下 (新潮文庫)』のハンスと同じことである。

 僕はカンフーの修行がしたいというよりも、カンフーを修行する必然が欲しかったのだろう。それはドン・キホーテが農夫の娘を「想い姫」だと思い込んで騎士道に邁進したのと同じことで、本当は誰だってよかったのかもしれないけれど、だからこそアイロニー含んだ「ときめき」が必要・・・なんて寝言を言ってるうちに、お前もう32歳だぞ!

ドン・キホーテ ─まんがで読破─

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