太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

幻想殺し<イマジンブレイカー>をするなら、その先も見据えてほしい

とある魔術の禁書目録II 第1巻 〈初回限定版〉 [DVD]

その正論って必要?

 厳しい正論を指摘するに留まるだけで、結局のところで該当者へのモラル・ハラスメントの効用しか及ぼさないような議論を見るとモヤモヤする。実際には一面でしか正しくない事が多いし、嫌な気分だけが残る。例えば居酒屋甲子園のような幻想がないと生きられない人も居るのは事実で、それが良くないことは存分に分かっている。それでも幻想を壊すだけ壊して、受け入れ先も考えずに「後は自己責任」「これが現実」と知らん顔をしているみたいな。 

 呪詛にしか作用しないことを言ってどうしたいのだろうか。最初から呪詛が目的なら軽蔑ぐらいはする。幻想殺しをするなら、その先を見据えたゴールも考えてほしいのに、その幻想は如何にダメかというロジックにばかりリソースを集中するのはダサいなーって思ってしまう。

北風よりも偏愛という太陽を語り合いたいわけです

 要するに「あっちはいかにダメか」というところの正当性に拘るよりも、「こっちのが魅力的」というプレゼンテーションを引き受けて引き込む方が建設的だという話だ。いわゆる『北風と太陽』である。このスキームであれば倫理的な問題に踏み込む事を回避できる。毎回それが出来るのかというのも難しいのだけど、犯罪行為でもないことへの否定ロジックばかりを考えていても仕方がないと思う。

 もちろん「太陽」が押し付けがましくなってしまうのも問題で、結局のところで「それ以外」への北風にしかならないのなら残念な結末しか見えない。あくまで「私はこれが好き」という「偏愛」を色々な人が並列的にプレゼンテーションして、その上で組み合わせたり、変更したりしながら個々の配分を調整できるのが良いと考えている。

選択肢を奪うのではなくて、与えるようにしたい

 選択肢を提示するのは基本的な営業テクニックであり、「選択肢にないもの」や「明らかによくないもの」を消し去る効果がありつつ、「自分で選んだ」という自己肯定感が得られる。とはいえ、ひとりの人間から計ったかのように均衡した選択肢を提示されたりすれば、「うぜぇ。そんな小手先のテクニックで動くと思われてたの?」ってなる場合もあって難しい。わたしです。

 あくまで、個々人なりの最善の選択肢が複数人からプレゼンされて、コンペになるという前提があれば、多少なりともマシになっていくのではないかとも思う。それって全く普通の話だと思うのだけど、その状況を確保するのが実際的には難しいがゆえに色々な事を抱えこんでしまうという現状があるのだろう。

 殆どの選択肢については「どっちつかず」でもよい。40%・30%・30%だとか配分比率を考えることもできるし、その判断すら必要ないものがほとんどだ。いつまでも決めないわけにはいかないという当事者性を持った問題もあるのだろうけれど、そんなものの方が少ないだろう。

自分だけが正しい処方箋を知っていて、これをやれば絶対に問題は解決するだなんて高慢に考えるよりも、各自が偏った視点をさらけ出し合うことによって、最終的に問題の解決に至ればいい。そのことに私の言論が採用されなくても、少なくともたたき台になってくれれば幸いだと考えている

「当たり前」をひっぱたく

「当たり前」をひっぱたく

 もちろん、これはこれで詭弁も含まれているし、こんな文章なんかに実質的な効果なんて殆んどないのだろうけれど、「ゼロではない」と信じたいところもある。「あれはダメ(だからやめろ)」という部分を掘り下げるよりも、「私はこれが好き」という「偏愛」を知る方が好きだし、実際的な行動にも影響しやすいと思う。『http://www.ikedakana.com/entry/2014/01/21/215840』ということ。お互いこんなところで文章の読み書きをしているマイノリティ同士なのだしね。

とある魔術の禁書目録外伝 とある科学の一方通行 (1) (電撃コミックスNEXT)

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