太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

村上春樹の「あちら側」と梅田望夫の「あちら側」

photo by kern.justin

村上春樹の「あちら側」と梅田望夫の「あちら側」

 村上春樹の小説とウェブ進化論は一見まったく関係ない話のように思えるけれど、ひとつの相似形がある。それが「あちら側」と「こちら側」の対比である。

 村上春樹の小説は「こちら側」でそれなりにうまくやっていた僕が、「あちら側の僕(=アルターエゴ)」の論理に巻き込まれ、部分的な一体化を成し遂げた上でアルターエゴが消失することによって「こちら側の僕」は強い喪失感を抱えるという構造になっている場合が多い。こちら側とあちら側でAND演算をした部分が抜けてしまうということだ。ここでいう「あちら側」は、純粋な世界を想起させており「こちら側」の論理とは一線を画しながらも影として関連する。

 梅田望夫のウェブ進化論における「あちら側」とは各種Webサービスのことであり、「こちら側」は「あちら側」の仕組みを詳細に知らないまま便利に利用できるようになり、あらゆる情報を預けるようになった。幸いなことに「あちら側」が失踪することは殆んどないのだけど、たとえばGoogleが一時的に停止しただけでも大きな混乱となった。実際問題として殆どの情報が消失してしまう可能性があるし、著作権やプライバシーなどについて「こちら側」の論理とは一線を画している。

呪術による分断

 あちら側の概念をこちら側に顕現させる際には常にアバタール的であり、「こちら側」と「あちら側」は呪術的な扉によって分断されている。ここで世界の分断が行われるわけだが、そもそも僕にとっての「こちら側」は、あなたにとっての「あちら側」である。僕らは両方にとって大切な物を奪いあったり、分かち合ったりしている。片方にとって大切なものは一方的に簒奪され、両方にとって大切でないものは捨てられる。ここで問題となるのは、「相手が大切なものだから、自分にとって大切なものだと気付いたもの」または「大切だったと後から気付いたもの」の扱いである。そこには時間差の喪失がある。

 こちら側に来てもらい、あちら側に行き、また別れること。物語はくぐり抜けた後の現実変容にこそ意味がある。エゴの拡大ではなく65%の縮小にある。そこで紡がれる物語そのものは凡庸のプリコラージュであって殆んど意味がない。扉をくぐり抜けられる事自体に意味はないし、全員がくぐり抜けられる必要もない。そもそも意味があるから価値があるわけでもない。それでもピンボールに意味を見出したくなる時もある。時間差の喪失を予感したアイロニーを織り込みながらも貴重な時間を蕩尽するのだからね。

図説 日本呪術全書

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