太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

他人の取る手段に明らかな問題があると感じるときは目指す目的が異なる事を疑った方がよい

photo by gwaar

目的が同じか?

 他人の手段を見た時に「どう考えても効率が悪い」とか、「それじゃあ無理だよ」ってすぐに分かるような場合は、そもそも達成したい事がなんなのかを確認した方がよいことが多い。それがプリミティブな欲求であるほど、自分とその人が目指している目的が同じだと思いがちだけど、そうでないことも多々ある。そもそも異なる目的に対する行動を見ているのだから、最善手を取ってないように見えるのは当然という話であり、明白におかしいと感じる場合ほど、その可能性が高いと言えよう。もちろん本当に無能である場合もあるのだけれども。

 これは「ハンロンの法則」における「悪意か無能か分からない行動をされたら無能を疑え」ってことと逆なのだけど、「悪意なく異なる」という場合は多々あるという事だ。どちらか一方がクライアントであるとか、上司であるといった場合は目的をすり合わせるのが先だし、そうでないなら手段の問題はそもそも発生していなかったという話になる。その時には「私の目的とあってないから無能と言える文脈であるか」が判定基準となる。

正しいフィードバックを受けられなくなる

 他者の目的や欲望は自分と同じであると短絡すると、この罠にハマりがちで、目的が異なったままで最善手を提示すれば、効率の悪い手段をドヤ顔で押し付けてくるイタい人という評価となって関わらないでおこうという「別の権力」を得るし、目的が違う事を疑わない人だと気づかれても、そんな人と目的のすり合わせをするのは不毛になるという「別の権力」を得る。

 どちらの場合であっても、生暖かい目という「別の権力」を得て正しいフィードバックが受けられないまま、実質的には聞き流されて嫌な気分と威信値の低下だけが起こるという塩梅である。「老害」のメカニズムについて『「老害の本質」は正しいフィードバックを受けられないまま固定観念を強めて他者に「呪い」をかけること - 太陽がまぶしかったから』に考察したのだけど、それは別に老人である必要はなくて、「別の権力」によるフィードバック回路の不調があれば、どんな場合でも起こりえることである。

 つまり、上司であれ、恋人であれ、親であれ他者を本質的に納得させないまま、その文脈に発生した別の権力によって一時的に譲歩させる経験が多いと、誤った可能性の高い法則に対してまで帰納的に証明できていると考えて固定化してしまうのです。そもそも論理によって演繹的に積み上げられたものではないため自省による反証可能性も低いですし、まさに無能な人は無能であるが故に自身が無能であることに気付けないまま固定化していきます。

 そして、さらに自信を深めて歪化した「法則」について、その条理でない部分の権力で従わせて他者を相対的無能化させながらも、それに気付けないスパイラルによって害悪をまき散らすようになること事こそが老害の本質なのです。

 そんなわけで、まずは目的側にすりあわせた上で、初めて手段の話をした方がよいのではないかと思うし、目的を合わせるのが筋違いであれば離れるべきだ。そこを省略して最初から手段の詰めの話をしてると残念なディスコミュニケーションになってることが多いんじゃないかなという話。「そもそもまともなコミュニケーションなんてしたくないのかも」っていう認識合わせはしてないんだけどね。

苦しい時ほど横に行きたくなってしまう

 本当に他人がどうかというより、自分が前に進む事のが重要なんだよね。他人がどう考えても不合理な事をしていると見えるときほどね。

ザ・ゴール ― 企業の究極の目的とは何か

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