太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

期間限定で壊れるかもしれない歪んだ梯子も必要なのだろう

photo by british fire rescue pics

永続性は嘘

 過去のことを考えるに「永続性」や「将来性」を過剰なぐらい重視していた時期があって、一生できるような仕事や学問はなにかと悩んだし、付き合うなら最初から結婚を視野に入れたりしていた。でも「試みること」と「そうであること」には大きな距離がある。外部環境も内部環境も変わり続けて、うまくいくはずもなかったし、それが壊れてから次を探すのが非常に難しくなったという反省がある。

 もちろん、ある程度までは残る部分もあるけれど、そうでない部分もたくさんある。でも、だからこそ虚無主義に陥るのではなくて、「期間限定」という割り切りを意識する事が増えた。壊れた後だからこそ感じられる感情の残滓や教訓は少しだけ彩りを与えてくれるし、幸運にも壊れてないものは嬉しい。

 最初から永続性を求めても、その時点での観点でしかなくて、少し経てば自分自身すら変わってしまう。すぐに壊れてしまうという予感があっても、その時点での観点でしかなくて、少し経てば心地よく続いてしまうのかもしれない。結末と心持ちはあんまり影響しない。そもそも壊れる可能性が常にあるという状態が永続的に続くからこそ社会契約が生まれたのである。

はしごたん

 僕の人生は複数の幸福追求プロジェクトで成り立っているわけだけど、「プロジェクト」という言葉はPMBOKにおいて「独自の製品、サービス、所産を創造するために実施される有期性の業務」という定義がなされている。つまり「有期性」である事は最初から明記されている。どれだけ永続性を追求してもいつかは死ぬし、いつかは壊れる。

 だから価値や意味がないのではなくて、過程をマシにする意志力が必要なのだろう。互いに 「今後とも(しばらくは)よろしく」という事について、もう少し寛容でありたい。3日や3ヶ月や3年で壊れてしまうかもしれないというアイロニーを内包しながら誓う永遠の愛についての罪悪感なんて必要ないのかもしれない。

 ウィトゲンシュタインは『論理哲学論考』の最後に「梯子」について述べている。つまり梯子は上りきったら放り投げなければいけないのだけど、放り投げるから無駄なのではない。互いが互いにとっての梯子になれば、どちらかが最終的には放り投げる結末の可能性があったとしてもマシにするための「試み」ができるのだろう。たとえ期間限定で壊れてしまうゆがんだはしごであっても。

ホワイトデーの奇跡

 ホワイトデーなのに誰にも返せなかったので応募します♥・・・ってしようと思ったけどなんか違うのかなって思った。なんていうか出逢いたい人とは出逢いたくないのかもしれない。でも出逢いたくない人とも出逢えないし、みんな死ぬしかないじゃない。やっぱり移民の受け入れをしなきゃいけないのかな。うにゅにゅ。要は、勇気がないんでしょ。

 小町や増田からケーススタディや理論ばかり導出してても何の意味がないのではないかという危機感は常にある。理想の結婚生活とか理屈では知ってるけど、格ゲーで言えば動画勢のようなものであり、物理行動に表出するそれとは徹底的に遊離している。そのギャップはそのギャップで面白いのだけど、手を動かしてフィードバックを得ていく事が必要なのだろうと思う。

自身でやらないから言える理想

 かつてジャイアント馬場は三沢光晴などのエース級選手達にピンフォールのみによる決着を命じて、激しくて危険な技の応酬を前提にした高度なレスリングスタイルを完成させようとした。これは「四天王プロレス」として大人気になったものの、選手への身体的ダメージや疲労の蓄積が非常に大きく、後の三沢光晴の事故死の原因もそこにあったのではないかと言われている。この事について生前の三沢は「自身でやらないから言える理想」と批判していて耳が痛い。

 教育問題であれ、医療問題であれ、異性像であれ、他者にアウトソーシングした瞬間に要求水準が理不尽に上がってしまうというのはあまりに無責任である。プレイヤーになった途端に陥る自身の無様さを前提に理屈を作るべきだし、そもそも恋バナにプロレス例えをするのはどうかという話ではある。

論理哲学論考 (岩波文庫)

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