太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

村上春樹は「長編小説」の拡充のためにこそ翻訳や短編の仕事をしているのだけど、僕の「長編小説」はなんなのだろうか

photo by jjpacres

「長編小説」の拡充のためにこそ翻訳や短編の仕事をする

 村上の著作は長短編小説のほかエッセイ、翻訳、ノンフィクションなど多岐にわたっており、それらの異なる形態の仕事で意図的にローテーションを組んで執筆している。しかし自身を本来的には長編作家であると規定しており、短編、中編小説を「実験」の場として扱い、そこから得られたものを長編小説に持ち込んでいると語っている。またそれらのバランスをうまく取って仕事をする必要があるため、原則的に依頼を受けての仕事はしないとしている。

村上春樹 - Wikipedia村上春樹 - Wikipedia

 処女作の『風の歌を聴け (講談社文庫)』からして、原稿を英語で書いてから翻訳するという手法で書かれていて、それが「日本人が受容するチャンドラー」のような感覚を与えるような文体に繋がっている。最初から日本語で書かれたら達成できない文体だったのだろう。

「長編小説」を書き続けるのは難しい

 『長文を書くのに飽きたのでしばらく充電します(フラグ) - 太陽がまぶしかったから』において、僕は「本来的に書きたかった内容は消化しつつあるし、特に突き動かすものもなくなってきました。」と表現したが、これは始める前に貯めていた「概念のパーツ」を一旦は使い果たしたという感覚であった。

 毎朝1〜2時間で5000文字近い文章を書いて発表していくのはタイピング量の問題だけでもそれなりに難しくて、「考えながら書く」という部分は殆んどなかった。既に概念のパーツが頭にあって、それを書き出していたから出来たことである。もちろん、書いていくうちにアカンやんって事があったりもしたけれど、着地できない事が分かっている話題は殆んど選べなかった。

 あらかじめ用意していた概念を大体使い終えた後に、同じような事しか書けなくなるという危機感があって、「期間限定」という事は何度も書いていた。今はまたパーツを作っては小出しに時期なのだろうと思う。その一方で、別の現象が発生する事がある。

分かる/分からないによる客の選別

 村上春樹の短編小説には変わった概念が粗く提示される事があって、それが後に長編小説の文脈で洗練されて出てくるパターンがある。例えば『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 上巻 (新潮文庫 む 5-4)』の「穴掘りのための穴掘り」は『中国行きのスロウ・ボート (中公文庫)』内の『カンガルー通信』で触れられた話である。そこには三つの受容形態があって、つまり

  1. 短編での概念を知っている
  2. 短編での概念を知っているけど忘れてた
  3. 短編での概念を知らない

 という前提条件の違いがある。それらの前提条件によって眼前の長編における文章の印象は異なることになる。もちろん、3であっても分かるようにするのが本来的には正しいのだけど、僕には2への憧憬のようなものもある。思い出させること。かつ、ここでいう「短編での概念」は私が作ったものであってもなくても良いというアクロバットを考えた。

 それはダウンタウンがしたと言われている「分かる/分からないによる客の選別」であり、つまり「分からない人がいる事による優越感」が絶対値としての価値評価に「分かっていることによる下駄」として付与されることである。一旦メタに入り込むとそこの隘路に迷いこみやすいのだけど、絶対値としての価値追求から離れてしまうという問題もある。

僕の「長編小説」はなんなのだろう

 現実問題としてブログなんて全エントリが読まれるわけもないし、大分適当な所があるので、確実に伏線が回収されるわけでもない。そして僕にとっての「長編小説」は長文ブログであっても仕方がないのだと思う。村上春樹は小説家だから、それ自体を目的にできたのかもしれないけれど。

 じゃあ何かとかんがえると、『はてな村会合を終えて、ある種の敗北宣言をする - 太陽がまぶしかったから』や『『はてな村コン』の遊び方 - 太陽がまぶしかったから』というのも安易すぎだし、仕事に還元するのもうまくいってない。先立って本質的な目的があったわけじゃないけど、小さな「力」を持ってしまったが故に有効活用できないかとグルグルしてしまう。

 ブログのKGI(重要目標達成指標)については、これまでもさんざん書いているのですが「長く続けられる趣味を作ろう」が大目標であり、副次的に「楽しい」「思考ログ」「交流」「収入」「承認」あたりの報酬を少しづつ得られたらいいね!というスタンスです。なので自己満足もクネクネも広告も同程度には重要ですし、同程度には価値がありません。

 行為には様々な動機があって性向の多元性と行為の展開する文脈の多元性において自己言及される動機は極僅かに過ぎないというのに、AはBなんだって殊更に定義するのはナンセンスだと思うんですよね。なのでパラメータ配分の問題になるのですが、私自身としては、どの報酬ベクトルについても大きなスカラー値を追いませんでした。面倒だし。

自分探しの自己目的化

 その事について、以上のように説明したのだけど、「プロテウス的人間」というのにも当てはまるのではないかとも思えた。

 アメリカの心理学者、ロバート・リフトンは、新しい価値観、役割、運動に次々に熱中しては離れるを繰り返す、そんな思春期モラトリアム的なライフスタイルを「プロテウス的人間」と呼び、新時代の強者のライフスタイルとして紹介しました。ちなみにプロテウスとは、ギリシア神話に登場する「自分の姿を自由自在に変えられるけれども、真の姿をあらわすことができない」神様のことです。

「若作りうつ」社会 (講談社現代新書)

「若作りうつ」社会 (講談社現代新書)

 これは現代社会においてはむしろマイナスになりかねない。ネグレクトや虐待なども「親としての私」よりも、「私の幸せ」を優先することによって起こる事が多いと『「若作りうつ」社会 (講談社現代新書)』に書かれている。

 自分気持ち至上主義として「私の幸せ」を効用関数にしてフラットに並べ替えて選択されたら、人が死にかねない事ですら「もう時間ないし、数学の勉強はお休み」って気軽さで放り出される。僕が「デタッチメント」を言うのはそこで、中途半端に踏み込んで、こじれさせて、飽きたら去るという事に対して嫌悪感や罪悪感を覚える。コミットメントする事は選びたい。

文化的穴掘りは続く

 正直な事をいうと僕は「世代間倫理」がかなり低くて、100年後の問題のために頑張るという事ができない。それは子供ができた時に変わるみたいな事もあったのだろうけれど「僕で末代」だろうし、それほどの効用でもないことは映画でも描かれている。それを免罪符にするのも違うのだろうけれど、僕は老人になっても何者にもなれない事を記述し続けるのだと思う。それ自体を利己的な自己実現として。

「彼らはときどき穴を掘るんだ」と老人は言った。「たぶん私がチェスに凝るのと原理的には同じようなものだろう。意味もないし、どこにも辿りつかない。しかしそんなことはどうでもいいのさ。誰も意味なんて必要としないし、どこかに辿りつきたいと思っているわけではないからね。我々はここでみんなそれぞれに純粋な穴を掘りつづけているんだ。目的のない行為、進歩のない努力、どこにも辿りつかない歩行、素晴らしいとは思わんかね。誰も傷つかないし、誰も傷つけない。誰も追い越さないし、誰にも追い抜かれない。勝利もなく、敗北もない」

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 下巻 (新潮文庫 む 5-5)

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 下巻 (新潮文庫 む 5-5)

 文化的穴掘りは続く。このブログはいつの間にか250日間連続更新をしていて、もうすぐ500記事になる。そろそろ何か見えるかと少しぐらいは期待していたのだけど、よく分からないまま。でも、だからこそ概念のパーツの仕込みを粛々と続けたい。いつか僕が紡ぐべきだと思える「長編小説」を見つける時を想像しながら。

夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです 村上春樹インタビュー集1997-2011 (文春文庫)

夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです 村上春樹インタビュー集1997-2011 (文春文庫)