太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

ドメスティック・モヒカン宣言

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喧嘩って難しい

 読みましたー。そろそろ論理手斧での喧嘩がしたいと右手が疼いていた頃である。でも喧嘩というのは難しい。現実世界のステークホルダーが絡めばどんどん難しくなっていくし、匿名のインターネット上ではコミュニケーションコストを殆んどかけずに相手に伝達することができるからノイズが多くなってくる。

 そもそもコミュニケーションコストをかけられたところで、ラポールが出来上がってないわけで、「私はコミュニケーションコストをかけたのだから、あなたもそれを負担すべき」と言われるとやなこったと思う。僕は大抵の問題については興味がないし、「人それぞれ」が答えになるような事に順列を決める気もない。他人が不合理な事をしてると気付いても、僕が迷惑しない限りは当人にとっては必要な過程なのだろうし、何かを言われても無視する自由がある。

ドメスティック・モヒカン宣言

 その一方で、僕自身が間違っていないなんて事はなくて、むしろ隙だらけだと思っている。だから、ちやほやされたり、こいつには何も言わないでおこうというよりも、誤りを指摘してもらえる方がありがたいし、「こういう考えもある」と知るのは純粋に楽しい。ただそれは「僕のような性質だから」というのもわかっていて、ちやほやされたい人にプロレスをしかけるのは頭がおかしい人だし、罵倒が言いたいだけの人の言葉に応じる事もない。論の誤りを指摘したら人格否定だと思う人にはなぁなぁで済ますし、相手にしても時間の無駄だ。

 ブログでは「第三者へのアピール」という軸があるのでややこしくなるけれど、正面から向かい合うときには少なくとも私のスタンスとしては1対1の対話だと考えていて、それには相手との同意や信頼関係が必要になると考えていている。その事について「ドメスティック・モヒカン」という言葉がひとつの補助線になると考えている。この言葉は、ちるつださんと飲み屋で話していく中で出てきた言葉なのだけど、確かに僕自身にも普段が淡白でなぁなぁで済ますわりには「身内には厳しい」というか、結構説教臭かったり、遠慮せずに誤りを指摘する側面もある。もちろん、「身内の距離感」を誤ってしまうこともあって、そこのディスコミュニケーションには結構怯えているし、身内になった途端に馴れ馴れしくなるのもまた違うとうのは分かっているのだけど。

安全に痛いコミュニケーションを望むこと

 そもそも匿名ないし顕名で使用しているインターネット上の出来事は大抵の場合において自身への寄与率が5%ぐらいに設定されたミニチュアな環世界である。それは別に雀荘でもスナックでも釣りでも良いのだけど、SNSやブログは特にコミュニケーションのエッセンスを抜き出した「安全に痛い」チュートリアル装置として動作する場合が多いと思っている。特定されるような情報を書いたり、倫理的にまずい事や犯罪行為の示唆をしない限りは一定の範囲でリセット可能であるという点において、例えば職場で政治的な話をするよりもよほど「安全」であろう。

 それでいて異論・反論などは出てきて痛めつけられる可能性が高いという点において「痛い」可能性は高い。それでも「痛い目」に合う事自体は、社会において偏見に基づいた差別行動をしたり、思い込みの成功法則を実践して致命的な失敗する可能性を減らしてくれる側面もあるので、悪いばかりではない。もちろん、公開された場所で来るもの拒まずでやっていながら炎上させるなというのは難しいし、逆にそれを望んでいない人に絡むのも互いにとってマイナスである。

はてなブログの惑星

 『2014.03.29.放送 後半 | ネットラジオ BS@もてもてラジ袋』というネットラジオにおいて指摘されていたのであるが、例えば『美味しんぼ』の環世界においては、「話がこじれても料理によって解決できる」という価値観が浸透している。つまり目指すべき価値のすりあわせが先だって暗黙的にすまされている。これは地球によく似た、しかし明確に異なる「美食の惑星」の出来事が描かれているからなのだと考える事もできる。この特性は少年漫画において特に顕著になり、ミニ四駆対決・野球対決・ボクシング対決のような対決が本質的なこじれの原因とはあまり関係しないままに開催されて、その闘いの過程の中で止揚や妥協や順列が見いだされる流れがある。

 「ミニ四駆の惑星」においては、ミニ四駆以外の問題については「人それぞれ」の平行線になりがちな中で、「ミニ四駆」という軸を入れることで、明確なルールに置き換える事ができる。これは、、そういう人間しか住んでいない惑星だからである。はてな村という環世界においてはブクマ数やPV数などがひとつの指標にはなるが、ツッコミ甲斐がある方が伸びるとか、時間軸が重要だとかがあって、指標としてはあまり適切でない。それに、はてなというサービスを使っているから身内だと言うのは無理があるとも考えている。増田(はてな匿名ダイアリー)の人々がはてなブロガーに厳しいのは、はてなというドメスティックな空間内おけるモヒカンが故なのだとも思うのだけど、ネガコメハスルーを誘発して、まともなコミュニケーションになりにくい。

議論に先立つコミュニケーション

 内田樹は議論を行う前には、「先だって議論のルールがすりあっている必要がある」という事を言っている。つまり、「矛盾した事を言ったら負け」「人格批判は別物」だとかそういう価値観とルールが暗黙的であれ、明示的にあれ、すりあっているからこそ議論が成立するわけである。

 これを突き詰めると、例えばミステリー小説が成り立つのにはそもそも「ここは地球と同じ物理法則で、殺人は悪であり、その動機やトリックを見つける必要がある」といった価値観とルールのすり合わせが先立って行われているといえる。それを意識的に崩すような試みは何度も行われているが、それはその暗黙的なルールを際立たせるためでもある。ここで重要なのは、「私たち」は議論の勝ち負けに価値があり、そのルールが決まっている惑星にいるのかということである。

コミュニケーションとしての喧嘩

 「戦争は政治の一形態にすぎない」と言われるけれど、喧嘩もコミュニケーションの一形態である。そしてコミュニケーションは 『【コミュニケーション能力=他人の行動確率を変化させて自分にとって適応的な状況をもたらす能力】 - シロクマの屑籠』の通り、そもそも確率的なものなのである。仮に論破に至ったところで、100%言う通りにするわけでも、100%言う通りにしないわけでもない。

 アドバイス罪が成立するのは『「価値観を押し付けるべきではない」は関係性・正しさ・押し付け度合いのミスマッチ問題 - 太陽がまぶしかったから』のように変動確率が低いスキームを作りながらも、そうならない事を詰るからであるのだけど、変動確率が高いからといって確実に変わるわけではない。

 それでも、この議論は論の整合性を問題にした、安全に痛いゲームであるというセーフティーネットがあればこそ、安心して止揚点を見つけるという「試み」に踏み込む事はできる。遠慮せずに極論を言ったり、論破することができるのだから、よい答えがでてくる「可能性がある」という事が重要であって、それを求めていきたいと思う。まずは同じ惑星にいることを確認した上でね。

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