太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

特殊性を獲得しようと試みるほど「いつか救われるのだから、現在は辛くてもよい」と「いま/ここ」を疎外することになる

photo by Commodities Now

おじさんのサブカル疲れ

 昔はサブカルをこじらせていたので、とにかく「他人と違うことをしよう」とか、「僕は変わり者で・・・」みたいなポジショニングをしようとしてきたところがあったのだけど、疲れてきた。

 それでも少し意識したいのが、「大枠を維持しながらも、昨日とは違うことをしよう」という部分。急にインドに旅立つとか、アフィリエイトだけで暮らしていきます!とかは全く考えていないけど、かといってゼロにするわけでもなくて、細かい部分での工夫や変化をもうちょっと追求したい。

 ルーティンに対するPDCAを回すとか、なるべく違うものを食べようとか、違う道を歩いて帰ろうとか。そんな時に「すでに他人がやったことだから、僕がやる必要はない」という自意識が邪魔になることがある。

 社畜乙、恋愛資本主義粉砕、マイルドヤンキー(笑)みたいな事を考えるほど、その呪詛は自分に跳ね返ってくる。マジョリティにはマジョリティになるだけの理由があって、コモデティ化したマイノリティを敢えて選ぶことをアイデンティティにしてはいけない。

細かすぎて伝わらないけど、伝わる必要もないのでは?

 大枠で変わった事を選べば細かい部分が雑でも黙殺されにくくなるから、そういう観点からは非常に楽だ。逆に細かい部分の工夫は伝わりにくいし、伝わったところで黙殺されやすい。でも、まぁそれで良いんだろうとも思う。僕は誰かに何かを伝えるためだけに生きているわけではないし、誰かの勝手に想定した「面白いやつ」になる必要性もないのだ。

 『モンスターハンター4』は楽しいし、『ONE PIECE STARTER BOOK 1 (ジャンプコミックスDIGITAL)』も面白いよね。それすらもコモデティ化したマイノリティを敢えて選ぶことなのかもしれないけれど、その再帰性を打ち切っていかないと仕方がない。「あえてベタ」なのではなく、「ベタにベタ」なのである。

「いま」「ここ」を見据える

 結局ところで、特殊性を獲得しようと試み続けることは、革命を待望することと同じで、それをするほどに「いつか救われるのだから、今は辛くてもよい」という「いま」「ここ」を疎外することになる。その「いつか」なんて来ないことは半ば認識しながらも。

 セカイ系的な思考を現実に行ってしまうと、実際に接続できていない「ここではないどこか」を妄想し続けることで、「いま」「ここ」を疎かにしてしまう傾向があります。これは「革命」を志向するのも同様です。実際には未だに多くの若年層が既存の社会の枠組みで働いているのにも関わらず、特殊な人々が取り上げられることで「『普通の人々』を含めた若年層は、ここではないどこかで救われるのだから、『いま』『ここ』では疎外されても良いのだ」という暴論を、それぞれの世代が受け入れるわけです。

 明日に繋がるから。明日に繋がるから。明日に繋がるから。そろそろ「明日って今さ!」と言っていかないと死ぬまで言えなくなってしまうのではないか。だから僕は「いま」「ここ」を少しづつ心地よいようにフィッティングしていきたい。

「若作りうつ」社会 (講談社現代新書)

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