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太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

海外文学を最後まで読み通せない教養コンプレックス保持者として生きる

読書 読書-読書論

photo by brody4

海外文学が読めない

 それなりの読書家だったはずなのだけど、実は海外文学の翻訳本を最後まで読めた経験が殆んどない。原文はもっとない。チャンドラーやフィッツジェラルドですら未だに読み通せてないぐらいだ。どうにも翻訳文体や描写や展開が苦手で、面白さを感じる前に投げ出したくなってしまう。春樹おじさんの翻訳は読めるんだろうけど、それも違うような気がして手をだしていない。

 だからマルケスが死んだ時にも反応ができなかった。1作品も読んでないのに語るのは無理がある。大学時代、正直なことを言えば「教養」コンプレックスみたいなものがそれなりにはあった。浅田彰や柄谷行人が参加した『必読書150』には「これを読まないものはサルである」と煽られ、立花隆の『ぼくの血となり肉となった五〇〇冊 そして血にも肉にもならなかった一〇〇冊』など「量を誇る」系の言説にもやられて、危機感を覚えたりもしていた。そんな強迫観念を抱きながら読む文学が面白いわけもない。

異邦人

 それでも何度も繰り返して読めたのがカミュの『異邦人 (新潮文庫)』である。このブログのタイトルである「太陽がまぶしかったら」は、この小説の台詞から来ている。主人公のムルソーがアラブ人を射殺した理由について問われ、他者に理解可能な水準に落とし込んだ自己言及なんて嘘にすぎないのに、それを求められる事への絶望を端的に表現している。

 この小説を読んで、僕自身の感情の起伏が乏しいことや、本質的なコミュニケーションを拒絶することについて、まるで自分の事を書いているようにも感じた。正確に表現すれば、そういう「設定」を内面化していたのだと思う。自己評価と他者評価は得てしてズレるものだ。なんて、もっともらしい事は言えるのだけど上滑りしている。実はいうとカミュの小説もこれしか読んでいない。

読書会のために読む

 『車輪の下で (光文社古典新訳文庫)』については読書会の準備として読み込んだ。読書会の2日前に一気に読んだので、一夜漬けも良いところだったのだけど、逆にライブ感をもって話せたとも思う。これは単純に読書会があったからという必要性が大きい。名作とされている通り、読み終われば非常に面白いし、得るものがあった。

 『ノルウェイの森 上 (講談社文庫)』で永沢さんが語る通り、「死後30年を経ていない作家の本は原則として手に取らない」というのもひとつの考え方だとは思うのだけど、結局は日本の通俗的な小説やビジネス書ばかりを読んでしまうのはなんなのだろう。

 村上春樹についても本当に初期作品しか読んでないまま現在に至っていて、『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』も『女のいない男たち』も読んでいない。「それだけ言及するなら読むだろ普通」っていうのは存分に分かっているのだけど、結局は3部作なり、『ノルウェイの森 上 (講談社文庫)』なりを繰り返してしまう。そもそも読書なんて娯楽なのだから無理に種類を増やす必要もないのだけど、なにか後ろめたさを感じてしまう。「老後の楽しみ」にするのには多すぎる量の本とどう向き合っていくかを考えたい。

「共感」が難しい

 海外文学が読めないのは共感や感情移入が難しいからというのもあるかもしれない。文化も違えば文体も違う。でもそれ以上に(教養のあるひとの)大多数が抱くであろう「これがよい」という感覚への共感が難しい事を認識するのが怖いというのもあるのだろう。

 お笑いや文章においても、「これがウケる」は理屈で理解できるし、それを生み出す駆動部分は興味深いけれど、じゃあ僕が笑うかと言えば殆んどない。その状態は「共感」ではない。結局の所で、あれもダメだった、これもダメだったと鍵束から合わない鍵を選び続けるのが怖ったのだろうとも思う。最初からピッタリの鍵なんて殆んどないし、試すうちに削れていく部分もあっただろうに。

百年の誤読 海外文学編

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