太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

結果の確率変動を試みるために毎秒投じる資本は「賭け金」ではない

私たちは毎秒毎秒宵越しの金を捨てなくてはならない - ←ズイショ→私たちは毎秒毎秒宵越しの金を捨てなくてはならない - ←ズイショ→

 読みましたー。この指摘はまさにそうだと思う。それで、本筋ではないのだけど、昔からある物事について、何かを投じるという意味合いで「賭け金」や「BET」と呼ぶ事について違和感があることを語りたくなったので、その話をする。

 「賭博」というのは一般的に賭ける物と賭けられる事象が独立しているものである。例えば競馬において、どの馬に賭けようが、それによってレースの結果が変わったら八百長となる。自身が参加者になっている麻雀のレートが100点100円でも、麦チョコを賭けても変わるのは心持ちだけで麻雀そのもに踏み込むことはできないし、ポーカーであれば賭け金を釣り上げて降ろさせるのも戦略に組み込まれてるのだけど、ポーカーゲームそのものはやはり独立している。「賭け金」というのは、いくら賭けようと事象の結果は変わらない。

 独立して施行される結果に応じて、戻ってくる金額が変わるだけである。これに対して、ある事象に対して時間や金銭や健康を投じるというリソースの振り分けを行うのは、むしろ対象に対して独立事象にならないようにする事である。結果として雨降りダンスになることもあろうが、あくまで相関関係を信じているわけで、「賭け金」の性質とは異なる。勉強量だのコミュニケーション能力などは「事象の結果の確率変動」を首題とするわけで、冒頭の「賭け金」とは性質が異なる。ここで「賭け金」という言葉に違和感を抱きにくいのは「機会費用」の問題で、すなわち「Aに注力したらBに注力できない」という事による。何かに投じないと損なのは、悩んでる時も、何もしない時も、時間・金銭・健康は毎秒毎秒没収され続けているからだ。僕らは常に死に向かっている。

私たちは毎秒毎秒宵越しの金を捨てなくてはならない。

一秒先にすら持ち越すことはできない。

「いつやるの?今でしょ!」っていうのは善は急げとか鉄は熱いうちに打てとかそういうこっちゃなくて、そこらへんの話な気もする。

人間というやつはあまりにポンコツがすぎるので「BETしている」「打ち込んでいる」と体感できる領域がやたらと狭いので分かりにくいんだろうけど、電車の向かいに座っている人の顔を見て「こいつ鼻でけぇな」と俺が思った時、俺は「鼻に着目する」ということに確実に何かをBETしてるよね。その同じ瞬間に株のこと考えて確実にその瞬間を金儲けに活かしてるやつもいると思うんだ

私たちは毎秒毎秒宵越しの金を捨てなくてはならない - ←ズイショ→私たちは毎秒毎秒宵越しの金を捨てなくてはならない - ←ズイショ→

 また金融商品においてはリスクの性質によって「貯蓄」「投資」「投機」と種類を分けて考えられてる。それぞれ、「無リスク(かつプラスサム)」「プラスサム」「ゼロサム」という意味になる。「賭博」は「ゼロサム」でありながらテラ銭があるので、「マイナスサム」となるのが一般的である。行動をしない理由として「賭け金を増やしたくない」「期待したくない」というのが決まり文句になっているところがあるのだけど、どういうスキームにおいてそうなのか性質を見極める必要がある。

 「賭博」ではないものに「賭け金」と使っているのであればゲームの性質を錯誤をしている可能性が高い。長期的、大人数で見ればプラスサムになるからこそ経済活動はあるのだし、貯金には利息が付く。資本投下は結果を確率変動させようと思ってしている事であって、最初から決まっている独立事象に対する「賭け金」ではない。宿命でないことについて、宿命論を気取ると見誤る可能性が高い。その一方で、投下資本と結果の曲線を見誤っている可能性も多々あることは認識する必要がある。

 例えば何度もプレゼントを贈ったり、親切にしようが、むしろ気持ち悪がられているかもしれない。この時の期待値と結果のズレというのは、その投下資本と結果の曲線の錯誤によって発生しているのだから「賭博」ではない。繰り返しになるが「賭博」においては、投下資本との事象そのものの相関関係はない。『3月のライオン (1) (ジェッツコミックス)』において妻と離婚した棋士がここで勝ったら娘にクリスマスプレゼントがみたいな「後がないんや感」の演出をされつつもあっさり負ける。勝つための努力の大きさと、賭けたものの大きさを混同して賭博スキームに持ち込んだ時点で自分から負けにいったのだ。

 人間というのは本当にポンコツで、意識しない限りは、この辺を適当に混同して思い込みで行動してしまう。正常性バイアス、確証バイアス、認知的不協和などなど。「賭け金が多いから結果が返ってくるはず」という文章は根本的に妄想なのだけど、投下資本の意味合いで使っているなら構文的に誤りではないので誤謬が検知しにくい。異なる事には異なる言葉を使っていかないと、混同していき、意志力が下がってる時に誤謬を見過ごして残念なことになる。だからそれらを認識して分けて呼称する程度の投下資本をしてもよいと思うのだ。猫という言葉は犬と猫を分けるためにある。それに加えて、消費と浪費の違いとかもある。勝手にボッシュートされるならマシな投資をしたいのだけど、そのボートフォリオ配分を既成の枠組みから「選ぶ」のであれば「賭博」と言ってもよいのかもしれない。テンプレサブカル糞野郎とか。

 こんな文章を書いてる間にも僕は死にむかっているし、これを読んでるあなたも死にむかっている。何もしなくても死にむかっている。だからその間の軌跡は自分で描くしかない。そこに必要なのは賭け金ではない。賭博なら離れて正解。投資や貯蓄を忌避してたら何も進まないし、そこに必要なのは「賭け金」ではない。純粋な「賭け金」になってしまった時点で確率変動に持ち込めないのだから、それに転じるような意味づけをすべきではないのだ。以上です。

カイジ「勝つべくして勝つ! 」働き方の話

カイジ「勝つべくして勝つ! 」働き方の話