太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

『1984年』の言語論的転回と際限のないバズワード生成について

photo by Nina J. G.

1984年

 『一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)』を読んでいる。この作品って「監視社会」の代名詞的に言われるけれど、むしろ「言語論的転回」の話だと思う。「ニュースピーク(=新言語)」がまさにそうなのだけど、例えば「国家社会主義ドイツ労働者党」が「ナチ」になったの同じようにシニフィアンから語源を取り除く作業が行われている。前者だと「国家社会主義とはそもそも〜」みたいな話が生まれる余地によって「現在は正しくない」という結論を内包し得るが、「ナチ」になってしまえば、シニフィエとの直接結合されるために内発的な否定の余地が生まれにくく、その時点で権力を得た人間のする定義に綺麗にすり替わる。

 これは「マイルドヤンキー」と「ニート」の関係に似ているかもしれない。「マイルドヤンキー」と言われれば「マイルドとは?」「ヤンキーとは?」という連想がないまぜになるが、「ニート」は「Not in Education, Employment or Training」の略語でありながらも直接的にシニフィエを想起させる違いがある。厚生省によるニートの定義においては「家事手伝いの女性」を含めないのだけど、内閣府による定義では含めていたみたいな話があったり、増田を中心に「マイルドニート」という言葉が流行っているのも「ニート」そのものが単一的な言語になっている証左であろう。

私の定義では違う問題

 色々な議論は言葉の定義問題によるディスコミュニケーションと好き嫌いや当事者性によるバイアスの話になってしまう事が多い。それは、そういうものなのだけど、「私の定義では違う」を前提に出すなら、その客観的な理由を明確にしないと「私がそう思うからそうなのだ」についての権力闘争になってしまう。この前提において別の権力構造があった方が強くなるのだけど、それは論の正当性そのものの話ではない。その上で『一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)』では、その言葉を「なかったことにする」という操作によって議論そのものを生まれないようにしている。例えば「自由」という言葉を辞書から消すということ。

 現代ではむしろ同質性を求めながらの、個人主義を実現するために、際限なくバズワードや議題を作り出す方向に進んでいるように感じている。パーキンソンの凡俗法則。僕を含めて個別個別の議論が深まっ太郎になることで際限なく生成可能な論理領土を奪い合うのはエコではあるし、楽しい。だけど、それだけで終わって短期間で風化するのもまた「なかったことにする」のと結果的には変わらない効果になるのかもしれないなーなんて思ったりもする。もちろん「なにも寄与しない」こそが重要な局面もたくさんあるのだけどね。

キャラ化コミュニケーション

 また性格や境遇に対するバズワードが作られていくことはキャラ化コミュニケーションとも結びついていると考えている。

 これはキャラ化コミュニケーションとも結びつくケースもある。つまり「AはXを頻繁にする」のだから「Aである私はXを頻繁にしなければならない」という転回である。先にキャラが決まり、そこから確率分布が他者や自分から読み取りやすいように変動するのである。ツンデレならツンデレらしく、快活なら快活らしく。

あるある話に名前を付けていくことで現実が変わりえる事について - 太陽がまぶしかったからあるある話に名前を付けていくことで現実が変わりえる事について - 太陽がまぶしかったから

 自己紹介や他己紹介なコミュニケーションが行動の羅列に先だってなされることが増えるほどに、それらしいロールモデルに縛られやすいのだけど、それでも類型が少なければ行動履歴との整合性にムリがでるから新しいバズワードが生成される。この時に類型を際限なく増やしていける事を自由とみるか、そもそも類型に縛られてる時点で自由ではないと見るのかは難しいところがある。

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)