太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

1年間ブログ書いていますけれど「何かを得られた」からこそ書き続ける意味は見出しません

photo by manoftaste.de

ブ、ブログ論だー!

やっぱり、ブログやるよりも、リアルでバンドやったり、絵を描いたり、小説書いたり、漫画描いたり、はたまたフットサルやったりしたほうが得るものは大きいと思う。まあ、個人的に思うってだけだし、ブログをただただ書いて「俺は色んなものを得ることが出来た!!」と言う人も中にはいるだろうけれど。また、ブログ書いて他の人と色んなつながりができて、リアルでも色んな事を得ることが出来た、と言う人もいるでしょう。ただ、俺はブログでの繋がりをリアルに持ちこむことはしないスタンス。そうなると、何も得ることは無い。意見を表明して、それに対する批判/同意/反証を貰うことはそれはそれで有意義かもしれないけれど、それが面白いかっつーと、極めて微妙なワケで。

(中略)

逆にブログを書いているだけの人はどうなんでしょうか?何かを得ることができてはいるのだろうか?書き続けることに意味を見出しているのだろうか?ブログを書くこと自体が面白くて、さらにリアクションが貰えたりすることが楽しくて仕方がない人も中にはいるだろうし、何かしらの意見にTwitterでは足りないような文章量でリアクションしたい、という人もいるのかもしれませんが。

 読みました−。「ブログ論」こそ何の意味もないと分かっているのに定期的に書きたくなってしまうのは、ブログを書き続ける事に分かりやすい意味なんてないからという事の証左なのかもしれません。私自身のスタンスは『個人の日記を300日間連続更新して感じたループ感と「放課後弟の友達の4年生を集めてクイズとか出しちゃう6年生」としての矜恃 - 太陽がまぶしかったから』で書いた通りなのだけど、もう少し「何も得られていませんし、書き続ける意味も見出せません」について当事者性から振り下げたいと思います。

 大義名分はいくらでも言えますが、冗談めかして言っていた「仕事とお金と愛」というKGIについて、広告収入やライティングなどの仕事に繋がる事が少しはあるし、ブロガーイベントに呼ばれたり、SNSでの交流が楽しいです。なにより名義上のカノジョが出来ました。得られたものが多すぎるぐらいかもしれません。桁がひとつ少ないとはいえ「何もない」なんて事はとても言えません。

モチベーションに依存させない

 プロブロガーのイケダハヤト氏にモチベーションについて聞いた時には以下のように答えてもらいました。

 イケダさんからの回答としては非常に明快な前提があって、つまり「プロブロガー」なんだから、そもそもモチベーションの有無に影響されないようにしているという事です。「ブログで食べる」という生き方をしているのに、「モチベーションが・・・」なんて事で足を止めてしまえば生活に直接的な影響が出る。それは確かに。

(中略)

 報酬には衛生要因と動機付け要因があって、衛生要因の不足を感じるほど、過剰に動機付け要因を強化していく側面があるのですが、その逆も一定の範囲で成立します。

 id:xKxAxKx さんのブログには「ブログでの繋がりをリアルに持ちこむことはしないスタンス(SNSも控えめ)」と「広告要素が控えめ」という特徴がありますが、これは『必ず結果が出るブログ運営テクニック100 プロ・ブロガーが教える“俺メディア"の極意』においても定義されている「交流と収入」という衛生要因と見なせる報酬系を敢えて避けるという事でもあります。

 だからこそ、ブログそのものについて動機付け要因としての強い意味付けが必要になってくる構造があります。これは給料があまり払えない居酒屋こそが「ポエム化」していくのと同じ構造ですね。僕自身の事を考えると「何かを得られた」からこそ書き続ける意味を見出す必要性があまりないのだろうと考えています。

ポエム化するブログ

 もちろんポエム化していく事は継続性にとって悪いことではありませんし、そもそもプロブロガーですらブラック企業並なのだから割合問題としてポエム成分を含んでいく事になります。逆に言うと初手からポエム成分が少なくて、まとめ記事や炎上や身内回しでアクセスや広告費を稼いだり、はてブ新着がどうみたいな話ばかりしているようなブログの90%は非効率性に見切りを付けて1年以内に辞めていってしまいます。それはそれで正しい選択です。

 ポエム成分には「効率が悪いからこそ生まれる当事者性としての価値」があります。歯ごたえのあるソーシャルゲームとして、やりがい搾取をされたいという錯誤です。つまりラリってるという事です。

 僕が過去に通いつめたエイチズ・バーでは100万文字以上タイプし、100万回以上参照された結果として僅かな仕事とお金と愛を得た。変換効率が非常に悪いなんて事は最初から分かっていたけれど、完全に「ゼロ」とは言い切れないし、少なくとも、「この機会」がもたらされる程度の変換率はあったということだ。完璧な無為など存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。

 僕はある部分においては非効率であることこそを好む。たかだか5%の賭金はゼロになろうが30倍になろうが本質的にはどうでも良い。そこで動く感情の流れのみが重要だ。最初から最後まで意味なんて殆んどないのだから、何かが動いている事が重要なのだ。「第三の場所」はその非効率な非効率な変換率にこそ意味がある。

 ただ、id:xKxAxKx さんは、こういう部分も結構苦手なのかなという印象があります。そういうわけで衛生要因も動機付け要因も弾切れになっていて、先のエントリに繋がったのだろうと推測します。交流と収入 or ラリってるかの二択において両方だめなら何に見出すかです。

文化的穴掘り

 なんてことを言う僕自身も本業が忙しくてブログ関係の仕事についてはセーブしてるし、アクセスも大分減りました。ネットの人間関係って面倒だよねって部分も増えてて孤独のブログに戻ろうなんてことも書いてます。それでも残ってくるのは何かと考えると「文化的穴掘り」なのだろうと思っています。

 id:paradisecircus69 さんが『一年以上ブログ書いていますけど何も得られませんし、書き続ける意味も見出せませんし、人生の意味もわかりません - あざなえるなわのごとし』にも書かれている通り、人間は意味のないことにも意味を見つける名人なわけです。

この世界の、大概の事は、何も得られない。
ひとが生きる上で必要なのは、肉体が死なないよう栄養を摂取し、病気を避けるため清潔にし睡眠をとり、排泄を行い、交尾をして種を残す。
ひとはタダの遺伝子の入れ物。

それ以外のあらゆる行動で得られる何かはすべて「錯誤」「自己満足」「思い込み」でしかない。

 繰り返しますが、衛生要因が満たされない行動については動機付け要因が必要になってきます。錯誤であり、思い込みとしてラリっていくしかないのだけど、大人 なので真から思い込めるだけの「幻想強度」が必要となります。「確からしい」感覚を高めていくほど、実在性を心のなかで持つことになりますが、人によって効くツボが違います。見せ金であれ、コミュニケーション技法であれ、第三者の同調や共感であれ、オカルトやアルコールやその先を使うのであれ。

 「思い込みの作り方を知りつつ、思い込みであることを忘れ去る」という作業をするのは一般に難しいのだけど、だからこそ面白いという側面もあります。連続更新記録なんて、学校の帰り道に白線の上を歩く遊びと同じなのだけど、アイロニカルに没入するから面白くなってくる。

「彼らはときどき穴を掘るんだ」と老人は言った。「たぶん私がチェスに凝るのと原理的には同じようなものだろう。意味もないし、どこにも辿りつかない。しかしそんなことはどうでもいいのさ。誰も意味なんて必要としないし、どこかに辿りつきたいと思っているわけではないからね。我々はここでみんなそれぞれに純粋な穴を掘りつづけているんだ。目的のない行為、進歩のない努力、どこにも辿りつかない歩行、素晴らしいとは思わんかね。誰も傷つかないし、誰も傷つけない。誰も追い越さないし、誰にも追い抜かれない。勝利もなく、敗北もない」

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 下巻 (新潮文庫 む 5-5)

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 下巻 (新潮文庫 む 5-5)

 素晴らしいとは思わんかね? えぇラリってます。でも、だからこそ、そこに実利的な意味も見出したくなる側面があります。人間は欲深い。そう考えたときに、こうやって過去記事の検索をして引用してれば大抵の答えが書いてあるというのは我田引水が過ぎるとは言え、それなりの意味を見出してもよいのかなというのがあります。私にとっての問題は途中までターミネートしておく習慣付けをするからこそ、個別の問題を丁寧に考えられるようにしようというのがありました。あ、これ進研ゼミでやったとこだ。

 これに対抗する手段のひとつとして「文化的雪かき」によって「一部のξレベルの問題をターミネート」し、それによって得た機会費用を配分してもらうという戦略を考えている。αレベルの問題について直接的な寄与はしないけれど、割り当てられるリソース量が増えれば倫理的問題を回避しつつ実現可能性を高める事ができる。

 これを村上春樹の小説内の言葉に習って「文化的雪かき」と呼んでおり「文化的穴掘り」からの量質転化されるものと勝手に思い込んでいます。しかし、その非効率性を自嘲しながら許容できる程度には「何もない」わけではないので、一定の幻想強度があります。

 そもそもアイロニカルの語源である「イロニー」とは、「真実を隠す」という意味であり、シニカルさだけではなくて、青臭い期待を内包することもありえます。そして自分自身ですら外形的に判断できない真実の配分なんて、その時の気分で「前からそうだった」と変わってしまうのです。その重ね合わせについて、自己言及を繰り返しても仕方がありません。いつだって適当な期待とそれなりの絶望を二重思考して「ゼロではない」からこそ適当に楽しくのめり込めるのです。

 そんなわけで自分にとって「ゼロではない」という視点を作っていくのがひとつの方法かなと考えてますが、無理に未練を持つ必要もないのだろうと思います。幻想強度を保てるツボは人によって違うのですし、そもそも幻想を抱かなければ生きていけないわけではありません。自身が生存するために衛生要因を満たすための仕事をちゃんとやって、心地よく錯誤できる趣味もオプションで見つけること。一緒くたにする必要はないし、それがブログである必然性もありません。でも、まぁ私はお二人のブログを読むのが結構好きですけどね。書いてる側の意味と読者にとっての意味はまた別の話で、だからブログ論にこそ何の意味もないのですが、そういう話を書くのは楽しいんだもん。

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 上巻 (新潮文庫 む 5-4)

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世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 下巻 (新潮文庫 む 5-5)

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