太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

第2回Skype読書会『一九八四年』〜意志力対決に勝ち続ける意志力

photo by Diodoro

自己洗脳

 連続出張でやられてるからちゃんと寝ようとしてるのに、夜中に会社からの電話で起こされたり、仕事量がパンクしてるのに長時間のMTGがあったりして頭がラリックマになっている。壊れかけのレディオがターゲットだったと想定できなかったのが悪いとか、前提が変わったのだから仕切り直しだと強硬にできなかったのが悪いと言われればそうなのだけど。今更そこを悔恨したり、攻撃的になっても余計に作業が進まないので自己洗脳して「やるしかない」という感じもある。

 内心ではまったく同意をしていないのだけど、外形的には受け入れているのと変わらないという矛盾状態は自己嫌悪感を呼び起こしてパフォーマンスに影響がでるので、内心側をすり替えたいという共犯的な欲求が生まれ、それを実現する方法論が開発されていった歴史がある。居酒屋ポエムも最初から同意している人は僅かであって、むしろ僕のような状態になっている人こそが過剰に外形的な表現をさせられていくうちに内心が外形に引きづられるから行われているように思える。

 でも、それは対処療法的であって、本当は最初から「これは同意できない」という感情を呼び起こす思考回路を奪う方が効率が良い。教育というのは得てしてそういう側面があるのだけど、もちろん悪いという意味ではない。社会的動物としては毎回毎回、全てを懐疑し、苦痛を感じる方が生きづらいから妥協したり、「自転車置き場の屋根の色」の議論をすることで覆い隠す。

記憶操作

 ところで近年の作品である『SPEC 警視庁公安部公安第五課 未詳事件特別対策係事件簿 DVD-BOX』や『TIGER&BUNNY(1) (角川コミックス・エース)』のラスボスが持つ特殊能力は「記憶操作」である。これは系譜の始まりである『ジョジョの奇妙な冒険 スターダストクルセイダース 8~17巻(第3部)セット (集英社文庫―コミック版)』のラスボスが「時間操作」であったことと対照的である。時間操作が出来るという絶対的に強い相手に対して、それすら打ち砕く意志力が勝つという流れがあったのだけど、近年ではむしろ「記憶操作」によって、意志力を奪われて取り戻すまでがルーティンとなる。少年漫画には意志力が強い方が勝つという法則があって、であれば意志力にハンデを与える方が振れ幅による演出ができる。

 その上で、「強さ」の定義が変わってきているという事でもあろう。なにかを成し遂げるのには「能力」「権限」「動機」の問題があるが、「能力」と「権限」の問題というのは現実世界においては解決しやすい問題でもある。例えば小規模なテロや通り魔は防ぎ切れないという圧倒的なリアリティがあるからこそ「動機」を抱かれないようにしようという議論になる。そうでなくても現状の社会システムはあまりに性善説を前提としているので、「出来るけどしない」を意識する必要がある。殆んどは動機を保ち続けたり、砕き続ける意志力の問題なのである

意志力を奪い取る

 『一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)』の後半においては拷問と洗脳が大きな流れとなっていて、ネタバレを言えば主人公は意志力を取り戻せなくなる。でも意志力を取り戻せなくなったところで主人公は最初から無力だったし、むしろ無力だからこそ、そういう事態になったとすらいえる。なので7年間もかけて思想犯罪者に仕立てた「後で」綿密に意志力を奪い洗脳するコストが高すぎるという違和感があった。依然として「やり方は分かったが、動機が分からない」のである。このことについて id:denkilemon さんが書いていて回路が繋がった。

安穏と身内の洗脳ごっこで溜飲を下げている暇はあるのだろうか。
わざわざウィンストンさんという無害で貴重な人材を矯正させて事実上の死体化をした目的は何か。党は永遠であると党自身が信じられていないのに、それを「自らが」信じこむためだけが目的であったのではないか。党の継続の実現を本気で目指すのではなく、党の永遠という幻想をどうにかこうにか実感として繋ぎとめるため、全能感を感じるためだけ、そのマスターベーションが止められなくなっちゃったみたいな妄想の妄想による自作自演の姿ではないか。

 洗脳による実利的な効果よりも、「洗脳の成功率を上昇させる事そのものが目的化してる」という観点から見ると異常な投下資本は合理的である。つまり達成されるべき課題は洗脳される側にではなく、洗脳をする側の自己洗脳にこそある。衛生要因が満たされないほど、動機付け要因を満たすために「幻想強度」を高める行動をすると書いた。

衛生要因が満たされない行動については動機付け要因が必要になってきます。錯誤であり、思い込みとしてラリっていくしかないのだけど、大人なので真から思い込めるだけの「幻想強度」が必要となります。「確からしい」感覚を高めていくほど、実在性を心のなかで持つことになりますが、人によって効くツボが違います。

意志力対決に勝ち続ける意志力

 万能感への「幻想強度」を高めるためには失敗することが許されない。それ故に「勝負自体を避け続ける人」と、「勝てる勝負だけをし続ける人」がいるのだけど、後者には一般的に莫大な投下資本が前提となる。勝てる勝負を続けるのためには綿密な準備による非対称性が必要となるし、一定以上の絶対値も必要となる。それはもはや『勝ち続ける意志力 (小学館101新書)』ですらあり、いっそ清々しくもある。「勝てる相手」に選ばれた側としては大迷惑なのだけど、そこにあるのは「この人を洗脳したい」という妥協しえる意志力ではなく、「万能感への幻想強度を高めたい」という絶対的な意志力なのである。そこを読み違えたからこそ、意志力対決に圧倒的敗北を喫することになったと読み解ける。

 このような意志力の読み違えは、色々な場面で起こっていると感じる。『他人の取る手段に明らかな問題があると感じるときは目指す目的が異なる事を疑った方がよい - 太陽がまぶしかったから』でも書いたのだけど、本質的な「欲望とプライドの中間点」を推定しなければ読み解けない行動について、自身の動機付けにあるツボが相手と同じだという前提で方法論の無能さを論じても無駄な議論となる。相手の意志力の源泉になっている事を読み解いた上での対応でなければ害悪だったり、無関係になることが多いのだけど、「害悪や無関係であることを認識しながら従う」という部分にこそ権力関係の外形的表出が生まれるという側面もある。僕は意志力対決に負けたのだ。その事について、内心をすり替えて「最初からそうしたかったのだから対等だ」と思い込める方が良いのかというのはラリックマになっている頭には難しい問題である。そんなわけで、第2回Skype読書会『1984年』は2014年6月13日の15時から開催です。

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

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