太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

真面目系クズ化していく社会構造では方法論的個人主義における認識範囲が狭い方が有利なのかも

妥協

 今週はずっと怠くてキツかった。やりたい事ができないのに、やらなきゃいけない事ばかり。もちろん選択の結果ではあるし、自分に同情する事には何の意味もない。ただ、それにしても「合意したように見せといて実態で崩せばよいか」みたいな話ばかりが増えてきていて不愉快ではあるし、それが当たり前になった世界にいると僕自身も慣れてしまうのが怖い。ロールシャッハさんになりきれない。

 確かに実態に則してないルールが増えてしまって、外形的に満たすように見せるだけで関係者全員が納得するような事態にあたることがありふれていて、そのノリがあらゆる所に蔓延してしまったというのがあるのだろう。そもそも実態的には守れない事を内包しながら動いているのは法律ですらそうだ。例えば道交法が100%遵守されたら逆に事故が増えてしまうだろうし、労働基準法の執行がザルなのは周知の事実である。

 それは仕方がない側面もあるのだけど、名義と実態がズレた時に判断基準が個人の裁量任せになってしまうというのが怖い。それが、『真面目系クズすぎると二度死ぬ - 太陽がまぶしかったから』や『「ここは分からない」「ここは未決」というフィードバックをしないで実行動されるほど怖いものはない - 太陽がまぶしかったから』に繋がっている。「合意したように見せといて、私の裁量で崩せばよいか」というのは、当事者の無謬性や影響範囲等の計量化能力が前提になるのだけど、自身の無謬性を真っ先に疑えない人が実態的にどうなのかは「あっ(察し)」でもある。無知は知識より、しばしば自信を生む。

許可より謝罪

 ただ、『許可より謝罪 - nanapi社長日記 @kensuu』というのも一方では正しくて、独断で動いてみてネガティブなフィードバックがあってから謝罪するという態度設定のが効率が良くなるほど、まともな手段では新しいことができなくなってきている側面もある。そもそも「自分の視点」からだけ考えれば謝罪は楽だ。謝罪したからといって必ずしもチャラに戻るわけではないけれど、その頃には別に乗り換えてるからOKという形で焼き畑してけば「みんなのうらみ」なんてスカラー値として合算する類のものでもない。どこまでも「自分の視点」のみを重視するのはしようと思えば出来てしまう。意志力の問題だ。

 僕自身は未だに功利主義的な側面があって、方法論的個人主義として「その人にとっての幸せ」とか「相手側が受ける損失」なども自身の効用関数に無意識的に採択してしまうのだけど、それらを認識範囲から外せる場合においては「無敵」になれるように社会構造側が変化してるのかもしれないと思う事もある。認識範囲が狭くなれば、計量化能力も低いままなのだろうけれど、それが低いからこそ出来た一手というのもあるし、「サービスを停止するよりも、お前の命のが大事なんだから逃げろ」みたいな言説の浸透は正しい側面のが多い。そういう観点から自身の認識範囲や寄与範囲を実態的に狭くしていく訓練を意識的にしている。誰かや何かに寄り添ったつもりになっていようが殆んど寄与できないし、ましてや「良い寄与」だなんていう鈍感さを持ちたくもない。無知は知識より、しばしば自信を生む。

 自身の価値を社会や他人への寄与をもってして測定するというパラダイムがある事は知っているし、まったく寄与しないなんて事もありえないのだけど、濃度と範囲は小さくしたい。仮に影響力があるとして、常に「良い影響」ができると素直に信じられる人が羨ましくもありつつ、僕に関わってこられると面倒だとは感じる。

(中略)

 それでも必要性を無理にでも感じられる人のが最終的には何かを掴むのかもしれないけれど、そのために生まれる諸々を引き受けたくもない。うまくやるには引き受けるフリをするのが上手くなるレイヤーと、それで自分自身を誤魔化すレイヤーが別物として必要で、どちらかと言えば後者のが問題となる。

Q「週末にひとりで家にいる無趣味な人って何してるの?」A「社会に影響しない生活をしている」 - 太陽がまぶしかったからQ「週末にひとりで家にいる無趣味な人って何してるの?」A「社会に影響しない生活をしている」 - 太陽がまぶしかったから

ギルティフリーであると思い込めること

 それでも、やっぱり『僕が人に何かを言えるとしたら、「ちゃんと寝て」「ごはんを食べて」「歯磨きしよう」「椅子には拘れ」ぐらいしかない - 太陽がまぶしかったから』のように「殆んど寄与できないだろうけど、良い寄与である可能性が高い」みたいな方法を考えてしまう。ギルティフリーであると思い込めること。

 僕は「殆んど◯◯ない」というレトリックを好むが、これは「少し(≒5%)は◯◯である」という意味を内包している。『銀河ヒッチハイク・ガイド』における「地球」という項目について、当初は「無害」だったのが、様々な調査や事件を経て「ほとんど無害」に書き換わる。大抵の物事はそういうものだろう。

 かつて「中二病」について語るときに、「寄与の過大な実感」という定義を出した。自身のちょっとした行動が世界や社会に対して大きな影響を与えているという関係妄想。それを努力なしに裏付ける根拠として「機関」「前世」「才能(センス)」「人気」といったエビデンスが捏造され、「現実から逃避」する。

 その一方で「社二病」になると一般的に逆になり、「寄与の過小な実感」という定義になる。すなわち、どんなに努力や運動をしても大局を変える事はできないという宿命論のなかで「社会は厳しい」と、現実らしい「現実への逃避」をするという逆転が起こる。

 実際には「殆んど寄与できない」が正しい。それは「少しは寄与できる」ことの裏返しというのは説明したとおりだ。人生は「ほとんど無益」かつ「ほとんど無害」な事の積み重ねであり、他者にとっても「ほとんど無益」かつ「ほとんど無害」に寄与していく。

ほとんど無害 - 太陽がまぶしかったからほとんど無害 - 太陽がまぶしかったから

 そんな迂遠な行動は大きなプラスとマイナスを繰り返すのに比べるといかにも貧弱だし、本質的には何もできていないと同じなのだけど、そもそも「殆んどの事には殆んど意味がない」という観点からみれば同じ半透明にすぎず、ならばせめて僕は僕自身の効用関数に徹底的に従うというドクトリンについては妥協をしたくないのだ。マジ系クズなのは僕なのだろう。

超クソゲー3

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