太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

「個人メディア」と「個人の日記」の違いは「コストパフォーマンス」という言葉が出てくるかの違い

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文章のコストパフォーマンス

 一昨日は『はてなオフィスのヘルシオお茶プレッソお茶会に参加してきた - 太陽がまぶしかったから』が終わってから別にあった はてなブロガーの飲み会に参加した。コアラが香川に帰るとか色々あってハシゴ。そこで「文章のコストパフォーマンス」みたいな話が出ていて、なるほどと思った。つまりブログ運営の姿勢として「個人メディア」なのか「個人の日記」なのかの違いは「コストパフォーマンス」という言葉がでるかどうかなのだろうなと。

 もちろん文章を書くのには時間が掛かるし、精神力を使う。実際に商品を購入したり、取材をすることもあるから「コスト」がそれなりに掛かるのは前提である。その上で文章を書いたからには反響が欲しいだとか、もっと言えば広告費や仕事やモテに繋がればよいという「機能」を明確に意識しはじめると 「価値V=機能P / コストC 」という価値工学理論に変形される。それがコスパというやつだ。

何を「機能」と位置づけるか

 個人メディアとしての意識が高い人々は自身の文章の果たす各ステークホルダーに対する「機能」について、意識的であれ、無意識的であれ考えてから自分メディアに文章を投下していく傾向がある。これを完全に制御していたのが id:Chikirin さんであろうと『全ては自分メディアへの養分とするために。でもそんなに育ててどうするの?〜ちきりん『「Chikirinの日記」の育て方』 - 太陽がまぶしかったから』に書いた。機能が上がらない文章を書けばコスト分だけ価値が下がるし、機能が下がるなら書かない方が良いのは言うまでもない。「コスパ無視」と敢えて言うのもコスパを意識しているわけで、短期的な収益よりも長期的な機能強化を見ている事を言語化できていないだけであると見ている。

 僕としては単純な広告費云々だけを「機能」と位置付けるのであれば普通にアルバイトしなよという立場なのだけど、機能強化について僕の認識の枠組み以上のものを見出していることが分かると面白い事が多い。それは『1年間ブログ書いていますけれど「何かを得られた」からこそ書き続ける意味は見出しません - 太陽がまぶしかったから』で言うところの「動機付け要因」としてラリってるという側面もあるのだけど、ゼロではなくて、一定の確からしさがある物事だ。

「個人の日記」に機能を求めるな

 翻って「個人の日記」が書きたいだけの場合は、それが枷になるという事について敢えて言う必要が出てきているのだと感じた。個人の退職エントリについて「はっきり言って個人の日記レベル」という感想がついて話題になったけれど、これは全ての個人メディアは自身にとっての機能が提供されるべきであるという「客としての胡座」であると見なしている。「難しくて分からない」と開き直られるのもそう。それだけ暗黙的にサービスしてもらえる立場なのだろうけれど。

 僕自身がブログ大戦略としてのアンチパターンを結果として繰り返してるのは別に逆張りをしているわけでなくて、僕自身にとっての「機能」ばかり見ているからである。だから読まれなくてもいいし、実際に全部読んでる人なんてあまりいないだろう。「もてなさない」事については、もはや陳腐化しつつある変化球と見なされる事があるのだけど、ちょっと違うのだ。

 それを目指してなかったのに、周りの影響で個人メディアとしてのコストパフォーマンスを追求しはじめて、書き手側の期待外れや疲労が見えると辛くなってくる事がある。ガチ勢とエンジョイ勢、幸せスパイラルと駄サイクル。別に強く決める必要もないのだけど「コストパフォーマンス」という言葉を意識している自分に気付いたら点検してみると良いのではないかと感じた。

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