太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

「働く」とは「傍を楽」にすることである

ライフワークとライスワークの分断

 「働く」というと会社に行っての賃金労働を考えがちだけど、それだけでは足りないという思いが強くなって実家に戻ったり、在宅勤務を模索している。過去には「ライスワークとライフワークを分けろ」という考え方だったのだけど、もっと混ぜ込まなければ出来ない事があるのだと考えを改めている。

 近代都市は機能要素に分割されており、ある機能を果たすためには「道」を走って異なる時空間にいる必要があるため「同時」には出来ない事が多い。例えば子育てや介護のために会社をやめざるを得なかったり、仕事で町内会的な事を蔑ろにするのは、この機能分割設計が大きく寄与している。

 都市は機能分割された機械のアナロジーによって語られる事が多かった。建築家ル・コルビジェは都市を「住む」「働く」「余暇」の機能要素に分割し、「道」はそれらを結ぶための単なる手段であると規程した。このアーキテクチャは我々の生活を規定する。すなわち都市設計はマスに向けた環境管理型権力であると言えよう。

平日の朝は家に「住ん」で、電車で「線路」を走って「働く」ための職場に出かけ、夜に家に帰る
休日の朝は家に「住ん」で、車で「道路」を走って「余暇」を楽しむ場所に出かけ、夜に家に帰る

 ホモ・シャチクは生活サイクルの中で「住む」「働く」「余暇」を行う必要があり、かつ「住む」「働く」「余暇」を行うための機能空間は異なる場所に存在する前提であった。そして人間の物理的存在は同時間軸においてひとつの場所にしか存在できないのであるから、ある時間帯を区切って異なる空間に存在するために招集され「機能」のための活動を行う必要があり、すなわち時空間の異なる「モード」が分断されている。このモードの分断の境界線こそが「道」である。

物理的移動権力の商品化と論理漂流する自意識による空想的ノマド主義(1) 都市設計に見る時空間の機能分割による仕事と生活の分断について - 太陽がまぶしかったから物理的移動権力の商品化と論理漂流する自意識による空想的ノマド主義(1) 都市設計に見る時空間の機能分割による仕事と生活の分断について - 太陽がまぶしかったから

「働く」とは「傍を楽」にすることである

 それを自覚するからこそ「働く」については、如何に短時間で終えるかという話になっていくのだけど、裁量労働なのに「定時」まではそこにいる必要があり、かつ長い「道」を通る事が常態化しているのであれば、「住む」や「余暇」のモードにはあまりなれない。しかし、「住む」や「余暇」のモードにある時にも「働く」があるのではないか。

 日本語の「働く」という言葉は、傍(はた)を楽(らく)にさせるところから来ている、と。何だ答えは僕の母国の言葉に、日本語にあるじゃないか。何で今まで気づかなかったんだ。傍を楽にさせることは、「働く」なんだ。妻を、子を、家族を、友を、地域を、社会を、全ての他者を楽にさせることは、「働く」なんだ。今自分が職場でやっていることだけが「働く」なんじゃない。「働く」は他者への貢献のことなんだ。ならば家事も、家族との会話も、友との語らいも、地域への関わりも、「働く」じゃないか。

働き方革命 ――あなたが今日から日本を変える方法 (ちくま新書)

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 先の子育てや介護や町内会は「働く」でありながら、「住む」場所でないと基本的には行えないというアンマッチがある。つまり、会社で「働く」のが忙しくてと「住む」や「余暇」を疎外して押し付けた諸々によって、もっと身近な傍を苦労させたり、悲しませたりするのであれば、「働く」なんて事は破綻している*1

 もちろん効用関数として社会的な使命を勝手に見出すのは自由だし、賃金がなければ共倒れで「傍苦」になってしまうのだから、リソース割り振りの問題なのだろう。それでも自身がフォーカスしたい範囲において苦労の総量が増えているのであれば、何かおかしな事をしているのだと意識した方がよいのだろうと思う。例えば、働き過ぎて唐突に心身を壊せば、自分だけで周りの苦労の総量を大いに増やす事になってしまう。

未来の働き方を考えよう 人生は二回、生きられる

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*1:「傍を楽」自体は言葉遊びみたいだけど