太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

情報コンニャクとしての普通の日記

情報としての価値がない日記

 ここのところ、あまりに情報としての価値がない文章を書いている気がする。情報量もそうだし、読者にとっての興味もそうだ。ここでいう「情報量」の定義は情報理論における「情報量」に準じる。

 情報量とは端的に言えば、ある確率的事象について確定的になった場合の価値のことです。ある確率的事象の正規確率がP(J)である場合、情報量I(J)は-log2(P(J))、例えば正規確率が1/256である場合は -log2(1/256)=log2(256)=8 となります。このI(J)がビットと呼ばれるものです。ファミコンの事を8ビットと言いますが、これはCPUが8bitの情報(=0〜255の値)を一度に扱えるという意味です。

 僕が個人の範囲で「どちらでもよいような事なのだけど」などと書きだす事については確率的事象としての振れ幅が少ないし、そもそも自己言及的で確定度合いも低い。社会情勢としての何かを描き出すほどに振れ幅が大きくなるし、充分な統計サンプルや演繹があるなら確定度合いも高くなる。

 もちろん「情報量」が多いだけではあまり意味がなくて、その情報と読者との関係性が使用価値には大きく影響する。主語を大きくすれば読者や友人等がその一員として関係性を実感させられる可能性が高いのだけど、「僕の個人的な感覚」に関係性が生まれえるのは、僕かテーマのいずれかへの興味が前提となる。

テーマへの興味

 テーマへの興味については『ウェブはバカと暇人のもの (光文社新書)』などに詳しい。よくもわるくも「下側」の感情に強く惹かれてしまうのが僕を含めた日本人である*1

  1. 話題にしたい部分があるもの、突っ込みどころがあるもの
  2. 身近であるもの(含む、B級感があるもの)
  3. 非常に意見が鋭いもの
  4. テレビで一度紹介されているもの、テレビで人気があるもの、ヤフートピックスが選ぶもの
  5. モラルを問うもの
  6. 芸能人関係のもの
  7. エロ
  8. 美人
  9. 時事性があるもの

 ウケるコンテンツには一般的に情報量と興味の両面があって、それぞれが栄養価と風味に対応すると考えられるだろう。客観的な栄養価が高くても消化できないものには栄養価は見出せないし、栄養がなくても美味ければ食べ続けてしまう事もある。

コンニャクとしての情報

 そもそも個人の日記なのだから、読者にとっての使用価値なんてトリヴィアルであると言う事もできる。僕はそういう他人の日記を読むのが結構好きで、情報量も興味も殆んどないのについつい読んでしまう。もちろん、ずっと読んでいれば、その人への興味も生まれていくのだけど、それは関係性の転回であり、つまり後付けの捏造である*2

 栄養価の例えについては梅棹忠夫の『情報の文明学 (中公文庫)』において以下のような記述がある。

 情報というのはコンニャクのようなもので、情報活動というのは、コンニャクをたべる行為に似ています。コンニャクはたべてもなんの栄養にもならないけれど、たべればそれなりの味覚は感じられるし、満腹感もあるし、消化器官ははたらき、腸も蠕動運動をする。要するにこれをたべることによって、生命の充足はえられるではないか。情報も、それが存在すること自体が、生命活動の充足につながる。情報活動が、べつのなにかの役にたたなくても、それはそれでよろしい。

情報の文明学 (中公文庫)

情報の文明学 (中公文庫)

 僕もブログにコンニャクのようなものを求めているのかもしれない。過激な味付けのネットニュースや、いかにも栄養価が高そうな本を読んでる合間にすっと入ってくるのは素朴な味付けのコンニャク。全部がそうなればよいという話ではなくて、そういうのもある方が僕には良いという話だ。なので僕個人が書いた普通の日記も誰かにとってのコンニャクになってくれれば嬉しく思う。

知的生産の技術 (岩波新書)

知的生産の技術 (岩波新書)