太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

東浩紀『弱いつながり』〜環境管理型権力を出し抜く「観光客」の生き方

弱いつながり 検索ワードを探す旅 (幻冬舎文庫)

Googleが予測できない言葉を手に入れろ!

 東浩紀の新著である『弱いつながり 検索ワードを探す旅』。現代日本におけるインターネット論でありながら旅行記でもあり、著者の思想が平易な言葉で引用・解説されながら、一種の自己啓発的な様相も帯びる自在性がある。ざっくりと言えば以下のように読み取った。

  • インターネットを使いこなすほどに再帰的な最適化によって階級が固定化される
  • 最適化から外れるためには「システムの外側にあるキーワード」が必要となる
  • そして「もっと知りたい」という欲望を「キーワード」に結びつける
  • そのためには旅にでたり、複数のコミュニティを渡り歩いて偶然性を積極的に取り入れるべき

再帰的な最適化と階級の固定化

 特にインターネット上においては自身にとって居心地の良いコミュニケーションや情報収集のための調整がしやすいという側面がある。RSSSNSにはお気に入りの人ばかりを登録してあるし、GoogleAmazonはこれまで行動履歴からレコメンドしてくるし、不愉快な人や言葉はスパブロミュートして視界に入らないように出来る。ネットはむしろ「閉じこもる」ための道具になってしまった。

 それは「今の自分」にとっては心地よいけれど「自分を変える」という必然性が生まれにくいという事でもあって、結果として自身の「階級」を固定化してしまう。例えば僕が二十歳の頃に「悟った」事なんて十年経った後には恥ずかしい事ばかりなのだけど、それは成長の証でもある。だけどインターネットを使いこなすほどに、自分にとって都合のよい言葉ばかりを取り出して、そのまま齢を重ねることが出来てしまう。そこでの「成長」があるとしても自身のおかれた環境により適応していくためのステップに過ぎない場合が多い。

 それはそれで効率的だし、鎮痛剤にも一定の価値がある。だけど未成熟な状態で思い描いた「あるべき姿」はどうしたって歪になりがちだし、結果としてメンタルヘルスや貧困等の問題を抱える事が多いように思う。この辺りは内田樹やシロクマ先生なんかも指摘していることで、「未熟な状態で枠を作っている」という状態を最初に疑うべきなのに、その幻想を幻想のままで維持しやすい環境がインターネットに限らず整っているからこそ折り合いや成熟の機会を逃して、致命的な破綻を迎えやすくなったのが現代日本社会の特徴のひとつであると言える。未熟な初志を貫徹する事に価値はない。

弱い絆(ウィークタイ)

 これを打破するための方法として、「意図的に環境を変える」ことが提示される。再帰的な最適化と所属の固定化は、自身の置かれた環境によってなされる。環境管理型権力によって相当の部分を無意識的にコントロールされているからこそ、「環境が求める姿」と「自身が求める姿」を一致させるほどに心地よい。しかし、それを続けても「かけがえのない人生」としては味気がないし、多様性がなければイノベーションも生まれない。だからもっと偶発性やノイズを取り入れて「環境」を裏切っていく方が楽しい。

 本書のタイトルである『弱いつながり』の元になった言葉は、アメリカの社会学者マーク・グラノヴェッターの 「弱い絆(ウィークタイ)」である。これは調査によって、転職者はパーティで知り合った程度の「弱い絆」によって転職した人のが、深い知り合いのつてで転職した人よりも満足度が高いという事が分かったというものだ。

 かりに、いまみなさんが転職を考えているとしてみてください。そのとき、友人や同僚は、みなあなたの現職を知っているし、性格や能力も知っています。だとすれば、どうしても、あなたにとって予測可能な転職先しか紹介してくれません。
 それに対して、「パーティでたまたま知り合ったひと」はあなたのことなんてなにも知らない。知らないがゆえに、まったく道の転職先を紹介していくれる可能性があります。それはすごい勘違いである可能性もあるけれど、あなたが知らないあなた自身の適性を発見できる可能性もあるのです。

 まさに、自分自身の「環境」は良かれと思うからこそ、現在の姿から安易に予測できる「あるべき姿」を描いて、それに向かわせようとする。でも、もっと他の可能性を見出してもよいのでないか。確率収束を迎えるのには早過ぎる段階で「悟って」しまってはいけないのだと思う。そんな時にこそ無責任で簡単に切れる「弱い絆」が重要となる。インターネットは「弱い絆」に適していると思われがちだけど、先述の通り、むしろ環境に固定化する仕組みとして進化している側面がある。だから、もっとリアルに出かけて偶然性を取り入れて、その上でネットを使いこなそうというロジックである。

旅と「弱い絆

 そんな前文から旅行記がはじまる。世界旅行をしながら文化の違いなどについて色々と考えるのは、ちきりん『社会派ちきりんの世界を歩いて考えよう!』にも似ている。「行ってみなければわからない」ことは沢山あるし、インターネットにある体験談は「インターネットに書く人」によって書かれているというバイアスがある。もっと深いところを知るためには、行く前には思いもつかなかった「キーワード」を現地で手に入れて、それを頼りにネットに深く潜っていく。ネットをより使いこなすためにこそ、リアルを変えるのだという。

 この主張はデジタルデトックスを考えている自分には、少し面食らったところもあるのだけど、本来的な欲望をよく捉えていると思う。実際には極端にネット依存をすることも、完全にネットを断つこともできないわけで、実現できないお題目を唱えるのは意味がない。偶然性を作るために旅に出る楽しさと「とほほ」を含めた実体験こそが最適化されすぎない生き方を可能にするのだろう。旅行をしたぐらいで探せる自分なんてないし、帰ってきた後の人間関係や稼ぎ方が変わるわけもなくて、むしろ変わらない事を確認するために旅をするのだけど、思いもよらない「キーワード」を持ち帰る事はできる。

検索させる欲望

 新たな「キーワード」を重視するのは、異なるコミュティの飲み会や勉強会に出る事とも一致する。「僕らは似ている」という事を確認し合うだけでは仕方がなくて、その場の話についていけなかったとしても出てきたキーワードさえメモっておけば、学習機会を作る事ができる。それはサブジェクトの一致を全人格的な一致と勘違いする事による。もっと弱くて簡単に切れる事を自覚した繋がりである。

 この時に「検索させる欲望」が重要であると説かれる。確かにキーワードを知っただけでは意味がないし、弱い繋がりは簡単に切れてしまう。だから「もっと知りたい」という欲望がセットになることで、それを自分のものにしようとする。この欲望を喚起する時間として「移動時間」の効用が挙げられる。

 仮想現実での取材の場合、そこで「よし終わった」とブラウザを閉じれば、すぐに日常に戻ることができる。そうなるとそこで思考が止まってしまう。

 けれど、現実ではそんなに簡単にはキエフから日本に戻れない。だから移動時間のあいだにいろいろと考えます。そしてその空いた時間にこそ、チェルノブイリの情報が心に染み、新しい言葉で検索しようという欲望が芽生えてきます。

 高城剛も言っているのだけど、劇的な体験のあとの物理的な拘束時間は重要である。切ろうと思えば簡単に切れてしまうからこそ、一定の向き合う時間を強制的に作る。

「観光客」としての生き方

 全面的なコミットメントをする気がないなら一貫してデタッチメントであるべきという初期村上春樹的な態度設定だけでは本質的にはあまりに無力である。異なる場所やコミュニティについてミーハーな態度で接する事を極端に嫌う人もいるのだけど、軽薄で無責任な弱い絆だからできることもある。パーティで会った人に思いもつかなかった転職を勧めるようにね。

あなたにとって私 ただの通りすがり
ちょっとふり向いてみただけの 異邦人

 ある場において異邦人であることは、互いにとって価値あるノイズになれる事もあるかもしれない。しかし、永遠の旅行者として生きるのは普通の人には難しいし、ある場所にとどまり続けて環境の代弁者になるのも窮屈である。そこで「観光客」としての生き方が提示される。時々は異邦人になることが、スキゾでもパラノでもない第三の道となる。

喚起された動物的憐憫と向き合う

 そして言葉だけで抽象化された議論をするのではなく、実際的な事を進めていくには「モノ」が必要であるという話になる。眼前の現実が呼び起こす動物的憐憫は、合理的な理屈よりも現実の行動を変えるからである。言葉は言葉でしかなくて、無限の解釈論ができてしまうから、何が正義なのかを確定することはできない。だけど、目の前に倒れた人がいたら知らない人であっても大抵は反射的(動物的)に手を差し伸べるだろう。これは性欲も同じである。

 人間は言葉の上での記号処理には圧倒的に強いし、残酷なほどに鈍感になれるのに、眼前の物理な現実によって喚起された反射的な欲望には抗えない弱さを程度問題で持っている。でも、だからこそ社会が生まれるし、環境によって規定された合理性の限界を超えることができるという。

 眼前の物理的な現実の殆んどはルーティンの産物であるが、「観光客」として時々は別の場所に行くこともできる。そして弱いつながりの偶然に身を委ねて、新たに生まれる欲望と向き合うことに自覚的になりたい。主体なき目的なき過程における「かけがえのなさ」を愛すために。