太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

破滅的になれる限りにおいて維持される大切さ〜ブログ論まとめ2014年版

photo by tarop

ブログ論で振り返る2014年

 土曜日は疲れが取れなくて寝ている事が多い。ブログを使ってブログについて語るのは「眠るために生きている」のと同じ程度には不毛である。楽屋オチで回るコンテンツは外部からのエネルギーを確保できずに自壊する過程にあるというのい語りたくなってしまうのは業のようなものなのだろう。死に方の自由ぐらいは決めたい。

 そんなわけで『今週のお題「年内にやっておきたいこと」〈2014年をふりかえる 1〉』ひとりアドベントカレンダー6日目は、2014年のブログ論について振り返っておきたい。

物理的な「非日常」に頼らない意志力

「ブログに書くためにイベントに参加する」とブロガーとしての自分より、当事者としての自分のが楽しくなってしまうので、「ブロガーとしての矜持」があまりない事も書いてきた通りです。なので「ブログに書くために過激な事をする」なんて事は考えられません。

 それで思ったのが、「むしろ物理的な日常を維持するためにこそ書いているのではないか」という事です。普通の出来事について、さも特別な体験であったかのように語るのは上手くなったような気がします。本当にそんな大袈裟に考えているわけではないのだけど、連想ゲームをしているうちに話が大きくなるのです。

 何度も言うように僕自身は普通の会社員だし、体力もないので日常生活は本当に淡々としているのだけど、だからこそ起こった事を針小棒大に語るようになってきた側面はある。起こることが少ないからこそ解像度が高まって「指一本の違い」を語れる事に快感を感じ始めると、むしろ「非日常」の頻度は少ない方がよくなり、僕の生活は安くあがる。

クサイブロガー

 もうひとつの方法として「あまり重要でない事を話す」という戦略がある。「ξ」とはギリシャ語における14番目の文字であり「クサイ」と読む。α、β、γと続いてξまで言うのはなかなか大変なのにも関わらず、このぐらいの優先順位の問題は何かをきっかけにして一気に当面の自意識を占領してしまう場合がある。しばらく経ってなんであんな事に・・・とシオシオと醒めていく。

 僕が公開で書くような話もやはり「ξレベル」ぐらいの位置づけのことが多い。何かを本気で動かすのであれば黙ってセキュリティーホールを突くし、完全に興味がない事ならいちいち書く事もない。14番目ぐらいには大切だからこそ、投げやりになったり、大袈裟になったりが同居する。炎上しようが大した問題ではないし、かといって完全に無視できるわけでもない。それで生きているわけでもないから誤りを認めやすくもある。

 それでもブログに「本当に大切なこと」なんて書かないという話。特に昨今は「議論」について諦めているところがある。議論をするには、議論のルールについての合意がとれている必要がある。

 訴訟なり、職場に電凸したりみたいなプロレスの試合中にナイフを持ち出す人々を含めた誰もが参戦できてしまうフィールドで言葉を徹底的に尽くす事なんてできないし、分かってもらう必要性がない人にコミュニケーションコストをかける必要性も感じない。

これに対抗する手段のひとつとして「文化的雪かき」によって「一部のξレベルの問題をターミネート」し、それによって得た機会費用を配分してもらうという戦略を考えている。αレベルの問題について直接的な寄与はしないけれど、割り当てられるリソース量が増えれば倫理的問題を回避しつつ実現可能性を高める事ができる。

 その一方で、例えば自分の文章を書ける人がプログラミングに拘泥しなくて良いように足回りを整えておきたいというクサイ欲望もある。きっと正解は教えられないけど「こっちに行くと死ぬ」という事例のひとつにはなれるのだろう。

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放課後弟の友達の4年生を集めてクイズとか出しちゃう6年生

 自身が「放課後弟の友達の4年生を集めてクイズとか出しちゃう6年生」になれると思える時にこそ、相応の矜恃が必要なのだと思います。いわゆるサードブロガー論争になった時も同じ指摘をしました。でも、そこでベタに降りてこられるからこそのブロガーなのでしょうし、それを織り込んでこそのループなのだろうと現在は思っていたりもします。他人に興味がなさすぎるのも問題ね。

 何度目かの世代交代が起こったという事もあって、徐々に新しい人達が「それ何度目?」という記事を書き始めていて、そこに対して先輩風を吹かせはじめる人が出てきた頃の葛藤。「放課後弟の友達の4年生を集めてクイズとか出しちゃう6年生」というのは id:zuiji_zuisho さんの表現なのだけど、未だにすごい破壊力がある。

 「先生」になりたがる時は自身への停滞を直視したくない事のシグナルなのだろうと自戒しているところではある。

「何かを得られた」からこそ書き続ける意味は見出しません

「ブログでの繋がりをリアルに持ちこむことはしないスタンス(SNSも控えめ)」と「広告要素が控えめ」という特徴がありますが、これは『必ず結果が出るブログ運営テクニック100 プロ・ブロガーが教える“俺メディア"の極意』においても定義されている「交流と収入」という衛生要因と見なせる報酬系を敢えて避けるという事でもあります。

 だからこそ、ブログそのものについて動機付け要因としての強い意味付けが必要になってくる構造があります。これは給料があまり払えない居酒屋こそが「ポエム化」していくのと同じ構造ですね。僕自身の事を考えると「何かを得られた」からこそ書き続ける意味を見出す必要性があまりないのだろうと考えています。

 ブログを書き続ける意味を見出すときに100%の意味付けをするのは難しい。もちろん「ポエム化」が悪いという話ではなくて、色々なKGIが複合的にあって動機が成立しているものなのだから、ストイックになりきるのは難しいという事である。これは逆の視点からも成立する。

 「コストパフォーマンスを重視するからこそ、1年も経てば大半は馬鹿らしくなって辞めてしまう気がする」と以前にもつぶやいていて、実際にその通りになってしまったのだけど元気なブログもあるし、むしろ承認欲求に貪欲だったり、イノセントなブログの方が閉鎖・移転しやすかった感覚もある。計測したわけじゃないけど。

 僕自身はむしろ承認欲求オバケになってしまう事を警戒していて、アフィリエイトを肯定しているし、哲学的ゾンビとして誰かになりきって書いたり、自分の意思と切り離して動作する最適解や道具を追求している部分もあるから、ノウハウブログと言われればそうであるし、「心」を差し出すことこそが割に合わないとも感じている。エゴを拡大して得るにしては「コストパフォーマンス」が悪い。

破滅的になれるから大切

 改造に限らず「ミニ四駆」が僕自身のブログに対するスタンスなのかもしれない。本物の自動車や高価なラジコンであれば、絶対にやらないような事を試しているし、自己満足や思い込みを逆説的に重視しているところがある。以下も肉抜きをしすぎて儚く壊れたミニ四駆を連想する。

(中略)

 それでも独自理論を妄想したり、瞬間接着剤でくっつけたり、調整をする過程が楽しい。自動車で事故ったのならそんな悠長な事を言っていられないし、その改造を自動車に応用しようなんて思わない。ミニ四駆と自動車の対決を頼まれて困ってしまう事もある。

 ブログの上でなら破滅的になれるというのは、物理的な生活で非日常を起こさないために重要な観点である。「あーそうか」と適当な思いつきを手間暇かけずにさっと出す瞬間が楽しくて家にまっすぐ帰りたくなる。どこにも行けない事は分かっているけれど、どこにも行けないから出来る事もある。

ブログについて語るときに僕の語ること

 結局のところでブログなんてものは、どうしようもない趣味だと思うし、有名ブロガーだのなんのという勘違いを抱いてしまいそうになる自分に吐き気がする。それでも、日々続けていると何かしらは生まれてきて積み上がっていく。

 サマセット・モームは「どんな髭剃りにも哲学がある」と書いている。どんなにつまらないことでも、日々続けていれば、そこには何かしらの勧照のような生まれるということなのだろう。

走ることについて語るときに僕の語ること (文春文庫)

走ることについて語るときに僕の語ること (文春文庫)

 どれだけ非効率的でも、ポエムにあふれていても、自分にとっての「気持ちのよい」場所を見つけてしまったのだから仕方がないのだとは思う。それでも破滅エネルギーで風呂を沸かし続けるのは継続性がないので、もっと自然発生的なエネルギーを取り込める「温泉」がないかという事も探っているのだけどね。

 繰り返しになるが、ブログ論なんて伝えるべき事をなくして文明を終わらせる時期を早める行為でしかない。それでも、こんなにも語りたくなってしまうのは「破滅的になれる限りにおいては大切」というテーゼから逃れられない業なのだと思う。アナロジーはアナロジー以上のものではないし、それ自体にはなんの意味もないのだけど、来年はどんな例えが出来るのだろうかという事を考えていたりもする。

健全な肉体に狂気は宿る―生きづらさの正体 (角川Oneテーマ21)

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