太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

野村美月『"文学少女"と死にたがりの道化』感想〜太宰にシンクロする青春のほろ苦さ

“文学少女”と死にたがりの道化 (ファミ通文庫)

文学少女と「場」が引き起こすループ

 「文学少女」シリーズとは文学を物理的に食べて生きる「文学少女」と、覆面の天才小説家だった過去を持つ主人公が織りなす学園青春ミステリーである。その一作目である本書では、太宰治の『人間失格』を軸に、今まさに起こっている不思議な事象をきっかけに発掘された過去を紐解いていく。

 現在の不思議な事象をきっかけにして、学園内で起きた過去の事件を紐解いていく展開は『氷菓 (角川文庫)』などにも見受けられるものだ。年次が変わって関係者が入れ替わっても、「場」には起きていた事が残り続けるし、それにシンクロして「繰り返し」が引き起こされていくのは、なにか業のようなものを感じてしまう。「はてな村」もそうだ。

太宰にシンクロする青春のほろ苦さ

 『人間失格』については僕自身もシンクロしてしまった過去がある。「お道化」を演じながらでないと人と繋がる事が出来ない事に悩んできた僕にとって、この作品自体が、それを告発する「S」のような役割をしてきた。

 そこで考え出したのは、道化でした。
 それは、自分の、人間に対する最後の求愛でした。自分は、人間を極度に恐れていながら、それでいて、人間を、どうしても思い切れなかったらしいのです。そうして自分は、この道化の一線でわずかに人間につながる事が出来たのでした。おもてでは、絶えず笑顔をつくりながらも、内心は必死の、それこそ千番に一番の兼ね合いとでもいうべき危機一髪の、油汗流してのサーヴィスでした。

 まさに「死にたがりの道化」である。だけど青春時代というものは多かれ少なかれ、そういう葛藤を抱えるものなのだと思う。外面良く振る舞っておきながらも、自分自身がサイコパスなのではないかと思い悩み、太宰のパロディのような日記を書いて、絶対安全レベルに調整した破滅と頽廃を実行する。

「ええ。太宰は好き嫌いがわかれる作家で、暗いとか重いとかうじうじしているから読みたくないという人もいるけれど、好きな人にとってはとことんハマってしまう魅力を持った作家なのよ。太宰の死を悼む年に一度の桜桃忌には、今でも大勢の人たちが参加しているわ。ファンの熱烈さでは他の文豪より頭一つ飛び抜けているんじゃないかしら。
 何故、太宰がこれほど愛されているのか、それは、読み手が太宰の作品の中に自分の悩みや痛みを見るからよ。

青春の衝動を本当に実行されてしまうこと

 もちろん「ああ、これは自分のことだ」なんて事を思わせるのは「作家としての能力」なのだと思うし、大概は凡百の体験に収まる事だ。ファッションメンヘラすら「お道化」の一種に過ぎない。『文豪の食彩 (ニチブンコミックス)』では太宰治の妻が書いた『回想の太宰治 (講談社文芸文庫)』を紹介しているのだけど、そこには意外に吝嗇な小市民としての太宰治が描かれている。作品や心中事件のイメージから破滅的な性格だと捉えられがちであるが、それは作品を売るための虚像であったとも推測されている。

 例えば自伝的小説として読まれる事の多い『人間失格 (集英社文庫)』において「子供の頃は食事の時間が一番の苦痛だった」という事を書いておきながら、実存としての太宰は「材料も調理方法も(故郷である)津軽風が最高」と婦人に言っていたという。小説をベタな実存として読むと見誤る部分が多い。

 だけども「一歩間違えば」という分岐点も確かにあって、そういった分岐点のひとつが紐解かれていくのが本書の展開である。「感染のしやすさ」と「感染のさせやすさ」の共犯関係がが上手く表現されている。

 「太宰のパロディのような文章を書いて遺書にする」なんて事は、10年後に思い出したら布団をかぶって足をバタバタさせたくなるレベルの恥ずかしさなのだけど、その時にはそれしか選択肢がないように思えてしまう感覚にも没入できる。ひとつ教訓めいた事を見出すとすれば、未熟な価値判断を論拠に致命傷を負うような事は避けろという事になるだろうか。

続刊を読むのも楽しみ

 「文学を食べる」という設定は本当に必要あるのかと思いつつも、文学作品を「味」で表現しているのが興味深い。次巻の『”文学少女”と飢え渇く幽霊 (ファミ通文庫)』のテーマは『嵐が丘 (新潮文庫)』である。

 この手の海外文学作品をあまり読んでこなかったので、これを機会に読んでみようかと思う。そろそろ当事者性の問題から離れて「文学を味わう」事もできるようになっているのかもしれないから。