太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

かとうちあき『野宿入門』で野宿道における「建てる・住まう・考える」に入門する

野宿入門―ちょっと自由になる生き方 (草思社文庫)

究極のノマドとしての野宿

 ノマドについて考えていくと、ある系譜においてはホームレスの意味と方法論に行き着く。「ホームレス」とは文字通り、「家がない」という意味であるが、出張が多い仕事を続けていると「自分の家を持っている」という状態に疑問を持つことがある。

 都内の高級マンションに住んでいようが、郊外の実家に住んでいようが、その日のうちに家に帰れない出張先においては「私はホームレスである」という一時的な状態遷移が起こる。

 多くのひとにとって、野宿とは「貧乏なひとがするもの」であり、「いい大人はしないもの」「するのは恥ずかしいもの」であるのです。
(中略)
 でも、「ただお金を使うことで得られる快適さを求め、それに満足しているだけでは、なんだかツマラナイんじゃないか」、なんて思うのです。

 どんなに立派な家に住んでいようが、出張先や旅行先において宿泊費を持っていなかったり、予約を取ることができなければ屋外で睡眠をとりながら夜を明かさざるをえない。

 かつて出張先の近くでジャニーズのコンサートがあったため、近隣のビジネスホテルや漫画喫茶が満室になってしまった事があるし、財布を落としてしまったり、ホテルに辿り付けないといったアクシデントによって野宿を余儀なくされる可能性もある。だから、そのような事は現実に起こりえる事だと考えて、野宿に対する心構えを作っておく事がサヴァイヴスキルになると考えた。

小は大を兼ねる

 家があってもなくても、お金があってもなくても野宿は可能である。その上で本書は「趣味としての野宿」を推奨する。「大は小を兼ねる」と云うが、使用する金額が少なければ保有する金銭の多寡が問題にならないし、野宿で用いた寝袋を家の中で使っても役に立つし、スマートフォンタブレットは家の中でも外でも扱えるのだから「小は大を兼ねる」と考えた方がしっくりくる。

 その前提において「選択肢としての野宿」を意識しておきたい。「野宿などありえない」という心持ちのまま下心が空回りして終電を逃したら、「・・・死にたいにゃん」となるのでラディカルな振る舞いを阻害する。「可能だけど、しなくてもよい」「あり得るけれど問題ない」に備えておく事こそが自由の源泉である。

やさしい固有結界の張り方

 上図に示した通り、野宿と家・ホテルで泊まるのには必要なものや扱えるものに差がある。これは「結界」であると言える。つまり自分の部屋はその副次的な効果の一部分として「布団や本棚が使用可能となる結界である」と認識する事ができるし、鍵のついたドアや壁によって盗難を防ぐ事ができる。それらが意味することは「物には自意識がないからこそ人間よりも定常的な居場所が必要である」という事である。

 寝袋は部屋の中で使える結界でありながら、部屋の外でも使える結界となる。気温調整やクッションとしての効果が主であるが、本書でも触れられている通り、「虫」や「盗難」からも守るための「結界」にもなる。睡眠は自意識がなくなることによって「所有の揺らぎ」が起こりやすいために、その状態でパブリックな場所にいれば服から財布を抜かれる可能性が高い。しかし寝袋の中に入っていれば、それを開いてまで盗むという労力が論理障壁として立ちはだかり、また寝袋を開かれたりしている最中に睡眠から覚める可能性も高い。対虫用結界としても寝袋は有効となる。蚊取り線香と顔掛け用の網があるとなお強い。

 ホームレスとは文字通り「家を持たざる者」であるのだが、そのために過剰に晒されたあらゆる事物の「所有」までもが揺らいでいく。

 『隅田川のエジソン (幻冬舎文庫 さ 33-1)」は公園で寝た時に全財産が入った鞄を盗まれるところから始まるし、「MY HOUSE」でも苦労して集めた空き缶の山を盗まれる。その流れのなかで理不尽に描かれる彼らの死によって誰もが「持つ者」として自明に主張できるはずの身体そのものの「所有」すら揺らいでいく。この「自身の身体の所有権を侵しえるもの」こそが「危険に痛い/痛くない」ものであり、睡眠や酩酊によって自意識からの所有が揺らぎかねない自身の身体が「私の家」に既に「所有」されていてよかったと安堵する一方で、自己再生産コストのために自由を絡め取られて他者に自身の身体を「所有」されていた事に気付く。住宅ローンがあるからとブラック企業を辞められないのであれば、どちらが所有されているのだか分からない。

消極的野宿と積極的野宿

 本書によれば野宿は二通りある。すなわち、消極的野宿と積極的野宿である。先に例として挙げた終電を逃したりして仕方なく野宿を行う場合を消極的野宿とし、旅行などにおいて最初から野宿を予定に組み込んでおく野宿を積極的野宿としている。

 しかし実際に貧乏旅行などをしていると「はじめに野宿ありき」で行動することは少なくて「近くにドヤや漫画喫茶がなければないで問題ない」という専守防衛的な野宿であることが多いと。都市漂流民にとって施設があるならあるでそれを利用する事も選択肢として検討する必要があり、「無料であること」が費用対効果として常に最良であるとは限らない。あくまで「選択肢」として意識できることが重要である。

固定結界と移動結界

 野宿に至る理由として消極的であれ、積極的であれ、「家から遠い場所にいる」という前提を本書では挙げており、状態遷移の揺らぎとしてのホームレスを想定するとともに、家の方が自分の寝たい場所まで移動してくる機能がないからであると考えている。病院が来い。つまり固定結界であるために出張中に「私はホームレスである」という揺らぎが起こる。

 固定結界を移動する事を可能とする家と野宿の中間体として車中泊があるのが、車は自分とともに寝たい場所へと移動することが可能であるという事である。「モバイルハウス」はトラックに載せて移動するといった方法によって同じ文脈に置ける。テントや寝袋も同様である。この考え方を進めると「寝袋は人間の足という車輪によって自分とともに寝たい場所へと移動することができる家」であると考えられる。

半径5Mの機動式セカイ革命

 ある事物は<私>にとっての有効範囲がある。ASIAN KUNG-FU GENERATIONのファーストアルバムは「君繋ファイブエム」というタイトルであるが、これは「君と繋がっていられる距離の限界は半径5メートル」という意味である。つまりセカイ系としての効用は半径5メートルに限定されることを表していて、この法則は「君と僕」だけでなく「本棚と僕」「布団と僕」「パソコンと僕」にも適用する事もできる。

 この制限を解除するための方法論のひとつが「君と僕」で手を繋いで窓の外に出るこである。それは「電子書籍端末と僕」「寝袋と僕」「スマートフォンと僕」が移動することでもある。ここでいう「君」は脳内彼女や機械として自立も自律できない事が有り得るものの、彼女は「僕の足を機能として所有する」ことができ、また車中泊においてのの車は「私の足を自身のアクセスを踏む素材として所有する」ことができる。つまり半径5メートルの結界に含まれた自身や事物を同時移動する/させることで「結界」を維持する。

仮想レイヤーによって可能となる裁定取引

 そして半径5メートルを保持したまま移動することで時空間の所有を微分していきながら、その効用を自身にのみ積分することによって、ある時空間の占有による維持対価を払う必要がない状態で十分な効用を得ることができる。それこそが空想的ノマド主義であり、セカイ革命の方法論のひとつである。

 また坂口恭平が「レイヤーを作れ」という事を言っているが、これは都市型採取民として同じ事物から新たな価値を見出すことである。自身にとっては価値があっても、他の人にとっては無〜低価値である事物は、奪われにくいし、無料〜安価で使っても文句がないために論理収奪可能となる。認識レイヤーのひとつとして「野宿」という拡張現実を構築することによって、「野宿に適した公園」「野宿に適した段ボール」などをありがたく論理収奪することが可能となる。レイヤーが異なる人々との交易にはフリーランチが付き物である。

ゲニウス・ロキと「建てる・住まう・考える」

 そもそも住居とは住人とっての恒常性を与えるために鍵や壁や空調や防音によって土地にひもづいた諸々の事象をそぎ落とすためのものである。つまりラテン語で「ゲニウス・ロキ」という「場所の守護霊」を憑き物落しするための結界である。良いにしろ悪いにしろ「寝袋」という結界では「ゲニウス・ロキ」を払いきるのは難しい。

 故に自身で建てた結界を用いて彼らと共存し、時に闘争しながら朝を迎えることとなる。そうして見る風景は自身の経験という拡張現実レイヤーと合成され、融け合う。本書の表紙にもある通り、大地と野宿道具に感謝するまでが野宿道である。

 これは「ハイデッガーの建築論―建てる・住まう・考える」における「建てる・住まう・考える」というスローガンにも合致する。「Bauen」というドイツ語は「建てる」を意味するのであるが、これは「住まう」を語源に持ち、また「自身の存在」も意味する。つまり「住まうこと」とは「建てること」「考えること」と不可分であるという考え方である。

 住まうことにとって、「建てること」と「考えること」はそれぞれの有り様で常にある不可欠である。しかし、この二つが互いに耳を傾けることなく個々別々に行われるかぎり、それらはいずれも「住まうこと」には至らない。それが可能なのは、この二つのことが、共に、住まうことに属している時である。そして、それぞれの境域に留まりながらも、次のことを心得ている時ある。つまり、「建てること」と「考えること」、それらはいずれも同様に、長い経験と絶え間のない修練のアトリエから生まれてくる。

 寝袋という結界は「家」と比較して簡単に建てることができ、参加者が増える事によって強度の高い方法論が出てくる可能性が高いとい。問題を小さくする状況を敢えて作ることで、そこに結界を建てて、住まい、考えて改善していくというPDCAサイクルを回していくことが可能となる。

 「長い経験と絶え間のない修練のアトリエ」をしようにも普通の人が家を何度も建てるのは難しいし、持続的野宿についても衛生や健康などの問題が付きまとう。あくまで一晩だけ寝袋で過ごすという安全に痛いアトラクションを繰り返すことに意味がある。

誇大妄想を抱きながら、ちょっと心をほぐす事

人生、いろいろあるけど、寝袋ひとつあれば、生きられます。
そう思うとちょっとだけ力が抜けて、心がほぐれてくるかも。

 大風呂敷を広げてしまったが、「趣味としての野宿」とは本書が言うとおり「ちょっと心をほぐす」ためのものである。オルタナティブな選択肢を認識して「野宿スキル」という野宿へのリスク受容度を高めた「無敵の人」として「安全に痛い」ものとして宿泊費という相対的リスクプレミアムを享受してもしなくても良い状態を自身に作るという事である。

 まずは本書にあるように「今日は部屋は暑いから川原で野宿してみよう」などと考えながら結界を建てることを想像する。それは私と手を繋いで一緒に移動したい人や物や事を選択するための視点にもなる。複製技術と論理的移動力があるために物理的な半径5メートルを断言する事は早急ではあるのだけど、それを享受するためには自身の脳を含めた物理媒体は近距離に必要となる。君繋ファイブエム。君と僕の半径5メートルのセカイに結界を建てて、住んで、考えて、これからの話をしよう。話疲れたら手を繋いで眠ろう。ゲニウス・ロキに見守られながら。