太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

ブログ運営を商取引の比喩で捉えれば「いかに苦労しないでアクセスやお金が稼げるか」になるが価値観は多様である

photo by hawaii

ブログ論のお時間

 ブログ論めいた話が流行っているので、すこしばかり乗ってみる。今回はカネやノウハウの話ばかり書くブログが増えたよねという話。

 この事について、僕は「コストパフォーマンス」主義の浸透と、そこに乗れない人との軋轢であると考えている。内田樹の著書に以下のような主張がある。

たしかに、資本主義経済体制の中に僕たちは生きているわけですから、ほとんどの社会関係がマーケットにおける取引を基礎にして理解されるのは当然と言えば当然のことです。けれども、社会制度の中には商取引の比喩では論じることのできないものもあるということは忘れないほうがいい。さしあたり、「市場経済が始まるより前から存在したもの」は商取引のスキームにはなじまない。

街場のメディア論 (光文社新書)

街場のメディア論 (光文社新書)

 教育や医療や報道について、「消費者」としての視点を過度に持ち込んだ途端におかしな事になるケースは多い。「消費者」は「最低限の代価で最高のサービス(=コストパフォーマンス)」を求めるべく行動するわけであり、それが全体最適や未来の価値から遠ざける。

 例えば大学生が「もっとも少ない学習量を代価にして、もっとも見栄えのいい学歴という商品」を手に入れようと「消費者」らしい振る舞いをすれば、「無知であるにも関わらず、一流大学を出ること」が勝利条件となる。実際にそれを自慢する人もいて、謙遜や自虐風自慢もあるのだろうけど、根底にあるのは他者よりも「買い物上手」であった事の誇りであると内田樹は主張する。

買い物上手になる事自体を趣味とするのか

 この「消費者」として振る舞いは殆んどの場合において有効なのだけど、ノータイムで損益が評価される商取引の比喩のみでは捉えられない文脈がある。政治、教育、医療、報道、そして個々の人間関係や趣味。

 この事はブログの運営のPVやアフィリエイトなどのノウハウ需給関係が主コンテンツとして成立する文化圏についても感じていて、つまり「いかに苦労しないでアクセスやお金が稼げるか」という勝利条件が趣味としてのブログをやっている人とズレているから違和感が表明されるという図式だ。

 そもそも「楽しい時間を過ごす」が報酬であるような事物に対して、「効率化」を他人に教えてもらうのは勿体無いように感じてしまう。楽しめる時間や可能性が減ってしまうばかりではないか。もちろん一定の定跡を踏まえた上での工夫にこそ価値があるのだし、「勝てないからつまらない」という気持ちも分かるのだけれども。

 もちろん「買い物上手になる事自体が趣味なのだ」と言われれば、目指している目的が違うのだろうし、目的が「違う」事は「悪い」という意味ではなく、多様性があってよい。

コストパフォーマンスを追求した先

だいたい、お金目的でブログを始めると、絶対に「割が合わない」ことに気がついて、更新がストップしてしまいます。稼ぐなら絶対にコンビニでバイトした方が割がいい。

 「コストパフォーマンスを重視するからこそ、1年も経てば大半は馬鹿らしくなって辞めてしまう気がする」と以前にもつぶやいていて、実際にその通りになってしまったのだけど元気なブログもあるし、むしろ承認欲求に貪欲だったり、イノセントなブログの方が閉鎖・移転しやすかった感覚もある。計測したわけじゃないけど。

 僕自身はむしろ承認欲求オバケになってしまう事を警戒していて、アフィリエイトを肯定しているし、哲学的ゾンビとして誰かになりきって書いたり、自分の意思と切り離して動作する最適解や道具を追求している部分もあるから、ノウハウブログと言われればそうであるし、「心」を差し出すことこそが割に合わないとも感じている。エゴを拡大して得るにしては「コストパフォーマンス」が悪い。

各々にとってのコストパフォーマンス

 つまり、コストであれ、パフォーマンスであれ、そこで定義された時間的、空間的な範囲の違いだけで、殆んど人はコストパフォーマンス教に殉じている。書くことをコストと計上しなかったり、書くだけで楽しいというパフォーマンスを計上しているだけであり、全体最適についても、今よりも次の世代を重視するというコストパフォーマンスを考えているに過ぎない。方法論的個人主義には利他行動を織り込む。

 しかし、何をコストとするか、パフォーマンスとするかについて個人間で異なるのにも関わらず、「同じブロガーなんだから基本的には同じような価値観を共有しているだろう」という前提に立ってしまうと、その手段として表出する部分に違和感を感じる事になる。

宗教戦争における北風と太陽

 「だから棲み分けろ」が基本的なスタンスになるが、お金儲けができるとなれば、そちらの誘惑になびいて定義を書き換える人がでてくる。価値観は不変ではないし、「布教者」もいる。自分にとって面白い事を提供してもらえたブログの矜持が消えてしまったり、文中に大きな広告が入って読みづらくなったり、スマートフォンで表示が崩れたり。「嫌なら見るな」までは受け入れるが、「好きなものを減らされる」や「嫌なものを増やされる」は少し困る。強いてエゴを出せば、そこなのだろう。

 ただし、この辺はお金や承認欲求以外の価値観を伝えてこなかった責任でもある。お金を稼ぐという機能はすごく分かりやすいし、僕だってお金が欲しい。だから残った人だけが価値を勝手に見出すようなスタンスでいれば少数派になってしまうのもやむなしである。ちょっと前までは日常雑感系が叩かれていたし、絶滅危惧種なのかもしれないと思うこともある。

 でも、そこで「お金の話は下品」「僕は軽蔑するけどね」みたいな形で攻撃をしても反発を感じるか、本心を抑えこませるばかりになってしまうだろう。正しいはてなしぐさを身につけていないからと排除しようしても、はてな匿名ダイアリーに批判を書くと通報で簡単に消されるようになった増田のようにはてなっ子大虐殺をされてしまうのが現代である。

異端信仰と寛容

 自分自身が読みたいようなブログを増やして、活発に続いてもらうためには、スタート地点はさておき、金銭や承認以外の価値を見出してもらえるような導線や機会を地道に増やすしかないのだとは思う。布教活動やお布施である。しかし、それは困難な道だし、「狂信者」にならねばなしえない。だからプレイヤーとしての僕自身の嗜好はさておき、できる限りは「寛容」であろうとする。ここで言う「寛容」とは以下の定義である。

異端信仰という罪悪または誤謬を排除することのできない場合に、やむをえずそれを容認する行為であり、社会の安寧のため、また慈悲の精神から、多少とも見下した態度で、蒙昧な隣人を許容する行為

寛容 - Wikipedia

 結局の所で同化政策は失敗し、互いに見下しながらも許容し、自分に合うパーツパーツは取り入れるという事になる。これらの流れはローマ人とユダヤ人の対比などを題材に何度も何度も戯曲化されており、答えはない。小さなパイだからこそ奪い合う必要性があるのか、小さなパイだからこそ共存する必要性があるのか。そもそも針小棒大な大言壮語に意味があるのかについて考えていきたい。

ヴェニスの商人の資本論 (ちくま学芸文庫)

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