太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

Googleの自動ペナルティ解除で消えゆく災害ユートピア的モチベーション

photo by WilliamMarlow

Googleからの自動ペナルティが解除されてしまった

 このブログはある時期からGoogleの自動ペナルティの対象になって、検索流入が全く期待できないという状態にあったのだけど、その前提でも読んでもらえるような記事を書いたり、SEOやプログラミングを学んできたという側面がある。PVそのものは重要視していないとはいえ、「出来高」のようなフィードバックを感じていたのは事実だ。

 Google八分問題に対して2014年10月ぐらいから本格的に対応を行ない。約1年をかけて以前の検索流入数の半分ぐらいの水準に戻ってきた。まだまだ予断は許さない状況であるとはいえ、「検索結果に載らない」という状況からは脱したといえるだろう。僕らの1年戦争は終戦を迎えたのだ。

 それが、ここ1週間ぐらいでペナルティが解除されてしまったらしく、リアルタイム検索を見ても常に検索からのアクセスがある。人気ブログと比較できるような頻度ではないが、これまでが0に近かったので感覚が狂ってしまう。そんな状況に感じる孫悟空の重い胴着が外れたような全能感と、急激に張り合いがなくなった寂寥感。燃え尽き症候群とはすこし違う。

災害ユートピア的モチベーション

 僕自身の中にある問題として、災害ユートピア的なモチベーションが強すぎるということだ。災害ユートピアとは、災害的な状況にあるときにこそ互いに利他的になって、率先して問題を解決しようとするコミュニティが生まれやすいという現象のこと。

「大惨事に直面すると、人間は利己的になり、パニックに陥り、退行現象が起きて野蛮になるという一般的なイメージがあるがそれは真実とは程遠い」と著者は言う。「地震、爆撃、大嵐などの直後には緊迫した状況の中で誰もが利他的になり、自身や身内のみならず隣人や見も知らぬ人々に対してさえ、まず思いやりを示す」。災害時に形作られる即席のコミュニティは「地獄の中で」他人とつながりたいという、欲望よりも強い欲求の結果である。災害を例にとり、社会や人間心理の本質に迫っている。

災害ユートピア――なぜそのとき特別な共同体が立ち上がるのか (亜紀書房翻訳ノンフィクション・シリーズ)

災害ユートピア――なぜそのとき特別な共同体が立ち上がるのか (亜紀書房翻訳ノンフィクション・シリーズ)

 それだけであれば美しい話のように聞こえるけれど、災害ユートピアの寿命は非常に短い。東日本大震災の経過もその証左になるだろう。災害ユートピアの中にある快楽が忘れられない人々は海外ボランティアに傾倒したり、もっと別の何かにハマりやすい。僕自身がシステムインテグレータに勤務していた時期にも障害発生時のアドレナリンや競合他社と手を取り合う感じに麻薬的な中毒性を感じていた。

 Googleのペナルティ解除のために他者を巻き込んで奔走したのにも同じような感覚がある。クリティカルな問題だったら別ブログを立ち上げたり、ライター業に注力したり、そもそも撤退するといった選択肢もあったが、そういう事をさておいてまで「このペナルティは意地でも解除したい」という衝動ありきで続いてきたという側面もある。

 他も大体終わってしまった気分。客観的には全然大したことないけれど。

課題の再設定にこだわらない

金田一耕助は解決すべき事件がないとメランコリアになるのだけど、僕自身も「解決したい課題」を栄養にして動いているのだろうと思う。しかし「解決したい課題」は「頑張れば解決できそう、かつ解決したら満たされそう」という性質を備えている必要がある……という選り好みをしてきた結果として「心の栄養失調」が引き起こされている気がする。

 そんなわけで、そろそろ高難易度な課題の再設定作業をすべき……というのがこれまで流れだったけれど、常に課題を抱えることが本当に幸せなのかという疑問もある。キリキリと締め上げていった果てにあるのは老いと死しかないし、そこに巻き込まれる「他者」にも目を向けるべきだ。むしろ、圧倒的成長!を免罪符にしながら「災害」を望んでしまう自身の闇を自覚しながら、「安定的発展」や「現状維持」をもう少しポジティブに捉えていきたい。とりま、環境の変化をあんまり意識せずに適当にやっていこう。

災害ユートピア――なぜそのとき特別な共同体が立ち上がるのか (亜紀書房翻訳ノンフィクション・シリーズ)

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