太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

ソーシャルメディア時代における「本当の私」はどこにある?〜平野啓一郎『私とは何か――「個人」から「分人」へ』

私とは何か 「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

「分人」再検討

 本書は平野啓一郎が自著の小説である『ドーン』で描いた「分人(dividual)」という概念について、著者自身の自伝的な要素を含めて一般に向けて解説した書籍である。

ドーン (講談社文庫)

ドーン (講談社文庫)

 すべての間違いの元は、唯一無二の「本当の自分」という神話である。そこで、こう考えてみよう。たった一つの「本当の自分」など存在しない。裏返して言うならば、対人関係ごとに見せる複数の顔が、すべて「本当の自分」となる。

私とは何か 「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

私とは何か 「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

 「分人」はキャラやペルソナといった「本当の自分」を隠して複数の人格を演じるという従来のロールモデルと異なることが強調される。むしろ、この「本当の自分」にまつわる煩わしさが、そもそも不要であるという論考である。「分人」には以下の様なルール設定があると理解した。

  • 分人は自身や環境を含めた他者とのコミュニケーションの中で自然に立ち現れる
  • 分人は個人を複数に分割した数を分母、起動し、実体化した部分を分子として表現する
  • 分人の分母は対人関係の種類の数となる
  • 分人の分子は関係性が深い相手ほど大きくなる

他者とのコミュニケーションの中で自然に生じる実体を持った自分

 「分人」は、あくまで他者とのコミュニケーションの中で自然に生じるのだから、キャラやペルソナという比喩は不適切である。自身を含めた他者と接している分人には実体があるが、「本当の自分」という妄想には実体がない。故に実体のないものに悩む必要はないし、実体を持った「分人」の集合こそが「本当の自分」である。本書ではこのモデルを用いて以下のような事象についての説明を試みる。

  • 分人は意識した演技ではなく自然に切り替わるもの
  • 分人は親しい人にほど、その人独自にカスタマイズされる
  • リストカットは自身の死亡を意図したものでなく、分人を消し去ろうとするもの
  • 愛とは、その人といるときの自分の分人が好きという状態のこと
  • 分人の大きさ(=分子/分母)が自分と相手でバランスが取れないと愛にはならない
  • パワハラや誹謗中傷は分人への攻撃なのだから、自分自身への否定ではない
  • 同一人物が、まったく思想的立場の異なるコミュニティに参加しえる

多重人格主義とあたりたい姿

 「分人」のような多重人格主義を考えると、「人格を捨てる」事も可能となるので、他方ではではデコイの方法論に行き着きやすい。「自意識の当たり判定」に対して、「当たり判定はあるが本体にはダメージが通らないデコイ」としての「分人」を「あたりたい姿」として用意して攻撃させることが考えられる。本書でも別の分人を充実させることでパワハラをやりすごせという話があるのだけど、これに関しては「本物の自分」「偽物の自分」問題に戻ってしまうのではないかという懸念を感じる。

 モデルそのものが定性的に語られたり、例外的な処置が行われている所があるので、厳密な検証はしにくいが、それぞれの説明については納得がいきやすいものである。なので「一定の範囲では正しい」ものとして、視点を変えてみる手法のひとつになれば良いのでは思った。また後述する「分人多元主義と多分人主義」について大きな示唆を受けた。

ネットワーカーと「分人」

 「分人」と聞くと、古くからインターネットを活用している人々にとって「ネットとリアルで二種類の顔」が表出しえることは当然の実感として理解しやすいものである。もともと僕自身は重度の2ちゃんねらーだし、増田ユーザーだった時期もある。そこでは僕自身の事よりも極論を持った人々のエミュレーションをすることが求められているように感じられた。だからディペートのように本心とは全く別の信念を持って論破を試みたり、喜怒哀楽を過剰に表現していた事もある。このブログも「池田仮名」という「中の人」にやや似ている架空人物について書かれている。

 またオフ会でも過去には「増田」のままで居る事が多くて、そもそも「池田仮名」というハンドルネームも「池田(仮名)です」「平塚(仮名)です」などと適当な仮名を言っていた事が元になっている。本書にも「匿顔主義」という概念が解説されているが、自分の顔や本名や肩書きとハンドルネームや書いている文章が同一視されるのがかなり嫌だった。最近は気軽に顔出しもしているが『はてなブックマークユーザーOFF会アノニマス(増田)参加者向け直前ガイダンス - 太陽がまぶしかったから』に拘ったのは、その辺の影響がある。

インターネットの使い方の変遷

 『個人の日記を365日間連続更新しているうちにリアルスナックはてな化が進んでいた - 太陽がまぶしかったから』にも書いたのだけど、空前のOFF会ブームもあって事態はやや複雑になった。それは自身に蓄積されないタイプのネット活動は減らそうと思ってきたことと、インターネットの一般化も影響している。はてなブログやTwitterでのコミュニケーションがリアルに結びつくことは多々あるし、そもそもFacebookやmixiやLineは先にリアルがあってからの補完的なコミュニケーションとしての位置付けが強い。

 ブログや掲示板を用いて擬似同期的に文章のやりとりするコミュニケーションは解像度が低いために擬態のしようもあるが、Twitterなどのフローメディアにおいては推敲しないでの発言や時間軸や位置情報や写真といったベクトル情報による「リアル」が意図せずとも表出して蓄積されていくし、他サービスとの連携によって広範囲で同一視される対象が増えた。Twitterは本来的には無防備なつぶやきをすくうためのものなのにそういう使い方は難しいし、ソーシャルグラフが似通ったら複数サービスを使い分ける意味がないという意識が強いものの、実態としては似通っている。

 であるから、アカウントごとに整合性を持って異なる自分を表出するというのも無理が出てきた。「鯖を分ける」ことは依然として有効だが、スマートフォンの電話帳からアカウントを検索されたり、写真などのちょっとした情報から特定されてしまう事は珍しくもない。飲酒運転のツイートがあった数日後には本名や所属や他のサービスのアカウントが明らかになって書き込みの矛盾を突かれてしまうような時代である。そうして<私>は統合的に表出されるようになったが、そのような場合においての<私>は個々人に向けて立ち現れるものではなくなって、画一的なものになっていったのではないかという懸念がある。先のルールにおける「分子が小さい」コミュニケーションしかできなくなってく感覚。

ソーシャルメディアと文化多元主義

本来、人って「いろんな顔」があって、夫といる時の私、実家にいる時の私、夫の実家に行った時の私、学生時代の友達に会った時の私、昔の会社の時の同僚といる私、趣味の友だちと一緒にいる時の私、ネトゲやってる時の私。 たくさんの顔があることはある意味「自然なこと」。

なのにSNSって「顔ひとつですべての人に向かってる状態」なんですよね。

高校の友達と、前の会社の上司と、ネトゲ友達と、さらに最近悲しいことがあった人、最近幸せいっぱいな人、全てに同じ顔で向かう・・・こういうコミュニケーションスタイルはSNS以前にはなかったことなんです。

ひとつの自分ですべての関わりの人に対するということ【ブログ編】 | ルッカ*ルシカ ブログひとつの自分ですべての関わりの人に対するということ【ブログ編】 | ルッカ*ルシカ ブログ

 以上のようなもやもやがあったので、上記のエントリに共感した。流石に上司までいたFacebookでは大人しくしている事が多かったとはいえ、「どこに行ったか」みたいな情報は共有されているし、仮に各々のメディア毎に「このキャラで」というのがあったとしても色々な要素から脆弱となっている。その意味ではOFF会などのリアルを含んだSNS全体に対する統合的な分人を用いる必要がでてきてしまう。分化していた人格が混交され、統合されていく様は文化多元主義とも言うべき現象である。「なりきり」を考えていた2ちゃんねらーだったり、ネットとリアルを完全に分けていた頃には考えられない事態であり、正直な事を言えば息苦しさもある。

分人多元主義と多分人主義

 文化多元主義は、文化の間の垣根を取り払い、自由に混交していくことをよしとする。それに対して、多文化主義は、文化はあくまでそれぞれの土地に根付いたもので、そのままの形で尊重されることが望ましいという考え方だ。

私とは何か 「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

私とは何か 「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

 本書においても「文化多元主義」と「多文化主義」を下敷きにして、「分人多元主義」と「多分人主義」という概念が提唱される。すなわち、一人の人間が抱えている複数の「分人」は混ざり合っていった方がいいのか、分かれている方が良いのかという話である。現実問題としては同じ物理に存在する人間であるために混ざりあってしまうのは必定であるが、一方でなるべく分化させていく態度も必要だとも感じている。

 インターネット上に見せる分子を大きくしても得られるものは少ない。結局のところでバーであれ、友人であれ、ネット上であれクローズドな場所のが重要になっていく。そこの平等主義は必要ないし、他人の分人についてまで意図せぬ統合をさせようとする人々は疎外され、小さな分子でのコミュニケーションしか受けられなくなっていくのだろうと思う。

 分人は本来的には自身や環境を含めた他者とのコミュニケーションの中で自然に立ち現れるものである。インターネットがリアルと混合する形で発展したからこそ「自然」に任せている限りは収縮が起こってしまいがいちだけど、であるからこそ相手に最適化された大きな分子の分人が作られる事を意識した関係性の構築も必要なのではないかと考える。その人にとっても、私にとって心地良い分人を「本当の私」として提示し合える事。それを自然にできるという事がきっと愛と呼ばれるものなのだろう。

私とは何か 「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

私とは何か 「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

(2013年01月15日のエントリからリライト)