太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

終わりなき鈍痛な日常に見て見ぬ振りをしていても人生は消耗していく

photo by Martin LaBar

習慣化を辞めること

 僕の行動には習慣化をしようとしては失敗している事もあれば、毎日当たり前のように継続している事が同居しているのだけど、ある程度習慣化してしまうと「それを止める」という選択肢が生まれにくいというのは共通になっている。結局のところでブログは1年近く毎日更新してるし、夜にはナッツを食べながらカフェラテを飲んでリッラクスして、歯を磨いて寝るという生活も長い。ナッツを食べる事にはなんの必然性もないんだけど無いと落ち着かない。ウィスキーからカフェラテに変えただけでも幾分かマシだろう。代替物を用意すれば変われるらしい。

 今の仕事も3年以上になる。最初のうちは頑張ってたつもりだけど、諦観のが強くなってしまってから長い。そもそも不本意なところに回されたという気分が強かったというのもあるのだけど、「不貞腐れても、不貞腐れなくても自分の人生が消費されていくのは変わらない」という命題が真である場合において、だから不貞腐れないで頑張ればればよいという価値観と、不貞腐れないようにしようが無駄に消費されている事実は変わらないという価値観は同居する。

終電を逃した後の選択肢

 飲み会の後に終電を意図せず逃してしまった後のような感覚。漫画喫茶を惨めに探したり、その場限りの感情を抱いたり、バーや安居酒屋で夜を明かすみたいな、後から憂鬱になる事を知っている夜のために安くはないお金と健康と次の日を投じるのを背後から青い顔をした自分が眺めてる。それでも居酒屋の席に一度座ると根を張ってしまう事が多かった。最近は意識して切り上げているのだけど、時々失敗する。重要な時ほど失敗する。

 本気で嫌なら終電には気づけるし、代替手段も思いつくだろうというのはわかる。嫌だという感情は嘘でないのだけど、それを解消するのも面倒になってしまうのだと思うし、全く何も期待しなかったのかと言えば嘘になる。パチンコみたいなもので、「これまで」の出玉が悪いほど「これから」の幻想上の期待値があがってしまう。もう1年やれば何か出玉があるかなとアイロニカルにでも思ってしまったのが馬鹿だ。

 そういう期待値管理と関係なしに根を張れる人はすごいと思うけれど、すごいと思われるために生きてるわけじゃないし、そんなのは自負の問題でしかなかったりもする。根を張るつもりもなかったのに、中途半端に根を張ってしまっていた自分に気付く。終わりなき鈍痛な日常に見て見ぬ振りをしてもしなくても人生は消耗していく。であれば。

終わりなき日常を生きろ―オウム完全克服マニュアル (ちくま文庫)

終わりなき日常を生きろ―オウム完全克服マニュアル (ちくま文庫)

関連記事