太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

寓話に従って釣り道具を無理やり渡す側もまた思考停止である

photo by [Duncan]

私の問題は私の手で解決する必要がある

 内田樹が『若者よ、マルクスを読もう 20歳代の模索と情熱 (角川ソフィア文庫)』で書いていた「マルクスは私の問題を解決してくれないが、私の問題は私の手で解決する必要があると教えてくれる」という言葉が好きだ。ここでいう「マルクス」は代替可能なのだけど、聞いた人に適したものでないと効果が薄まる。どんな髭剃りにだって哲学があるからこそ、それを半ば理解できるが故に認めたがらないようなことがちょうどよい。

 「デウス・エクス・マキナ」はありえると言えばあるが、ないと言えばない。「結果としてそうなる可能性はゼロではないものに当たった」ことと、「ほぼそうなるだろうという事に当たった」のは意味的には異なるはずなのだけど、物理的には同一の事象となる。逆もまた然りだ。「私の問題は私の手で解決する必要がある」と知るためにこそ既存の蓄積を学ぶわけだけど、一方では『サラリーマンの悩みのほとんどにはすでに学問的な「答え」が出ている (マイナビ新書)』なんて話もある。まぁそうだろう。

恋愛に「もしも」はなくて、「なぜ?」は当事者にしかわからない

 統計的な計算によって期待値が高そうなものは選べる。でも、僕が知りたいのは眼前の話であって、その個体は65%の死と重ね合わさっているわけではないという詭弁は言える。恋愛に「もしも」はなくて、「なぜ?」は当事者にしかわからない。そういった「当事者の論理」について考える事はよくある。100人のうちの5人に売るためのルーティンであればそんな感傷は無視できるのかもしれないけれど、1人のうちの1人にはいつだって「もしも」はなく、私たちの問題は私たちで解決する必要がある。

 現実問題として僕たちは「1人のうちの1人ではない」のだとアイロニカルに理解しつつも、アイロニカルであるからこそ、過剰な没入をする。そんな時に「私たちの手で解決を試みた」というプロセスそのものによって「正解」が変わればなんて甘えた事を思う事もある。おせちもいいけどカレーもね。それが「デウス・エクス・マキナ」は成立させる条件だ。プラン通りにいかなかったデートにこそ愛おしさが宿る。

 そこにあるのは、当事者としての「なぜ?」だけであり、論理的な理由などない。端的に言えば「えこひいき」であり、ゲマインシャフト空間におけるえこひいきは、そのえこひいきを半永続的にし続ける覚悟があるなら悪いことではないが、「私の問題は私の手で解決する必要がある」という事実を隠蔽するという問題はある。

寓話に従って釣り道具を渡すのもまた思考停止である

 魚を渡すのか、釣り道具を渡すのかという寓話があるが、釣り道具を渡すのは必ずしも正解ではない。僕は今までの人生で釣りを一切したことがないけど、美味い魚を食べてきたと思うし、これから釣りをすることもほぼ無いだろう。現代社会において魚を得るための方法は「釣り」のほうがマイナーだという事実を忘れてしまいがちだし、釣り道具さえあれば魚が釣れる人ばかりではない。比較優位論を出すまでもない経済原則だ。

 ポエム化する社会においてラリって物理的に暴れてるなら別だけど、鎮痛剤でダウナーにラリってる人に「鎮痛剤とかやめて痛みを受け入れろよ!」というなら、その前段階での根治プランがないと「お前も痛い思いをしろ!」と喚いているだけだ。単純に痛い思いをさせたいだけの人はまだマシだけど、中途半端な正義感なら質が悪い。

 他人の「その幻想をぶちのめす」をしたいとして、せめて「私の問題は私の手で解決する必要がある」という諦観や覚悟をセットになければ望む変質はなされないだろし、彼にとっての「マルクス」ではない部外者からもたらされた痛みはリアリスティックな悪意ばかりを醸成する。寓話に従って釣り道具を無理やり渡す側もまた思考停止であり、「私は彼よりも優れているから彼を治癒せねばならない」という都合の良い幻想にラリっているのだろう。

若者よ、マルクスを読もう 20歳代の模索と情熱 (角川ソフィア文庫)

若者よ、マルクスを読もう 20歳代の模索と情熱 (角川ソフィア文庫)