太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

とよ田みのる『FLIP-FLAP』〜僕らのゲーセンクイーンと僕らのピンボール

FLIP-FLAP (FUNUKE LABEL)

FLIP-FLAP

街の小さなゲームセンターからシカゴまで広がるピンボールを巡るラブコメディ。 『普通』の深町くんが踏み込んだ本気の世界とは?

 『FLIP-FLAP (FUNUKE LABEL)』はピンボールを描いた漫画である。ヒロインに「ピンボール台に刻まれたハイスコアを更新したら付き合う」と言われ、同じ挑戦をしている彼氏候補たちとの奇妙な友情や大会参戦などを経ながら「本気の震え」に目覚めていく。

 いわゆる「ゲーセンクイーン」の構図にありながらドロドロとした感じは少ない。ピンボールのテクニックや面白さが中心に描かれているし、「たかがピンボール」「ピンボールがうまくなったところで」というシニカルさの先にあるものが主題だ。

ピンボールを巡る冒険

 ピンボールを巡る冒険には妙な郷愁を覚える。初めて読んだ村上春樹の小説が『1973年のピンボール』であり、コンピュータにハマったきっかけがWindows 95 plusに搭載されていた通称スペースピンボールWindows 3D ピンボールにおけるSpace Cadetという台)であり、セガサターンのデジタルピンボールをリプレイしつづけていた。

 ちょうど村上春樹の『1973年のピンボール (講談社文庫)1973年のピンボール]』が精神に影響を及ぼしていた頃だったし、とにかく僕の生活の殆んどはピンボールで埋め尽くされていた。デジタルピンボールの良いところであり、悪いところは――たいていの家庭用ゲームと同じように――山ほどの銅貨を使わなくてリプレイができることだ。取り返せないのは「貴重な時間」であり、「潰される暇」であり、または青春とでもいうべきものだった。

 ゲームセンターのピンボールをやったことがないわけでもないが、デジタルピンボールの記憶の方が色濃い。リアルな台を叩く感覚も、ゲーセンコミュニティのようなものも体験しておらず、自分の世界に引き込もっていた感覚ばかりが残っている。なので『FLIP-FLAP (FUNUKE LABEL)』のような体験については想像だけができる。

たかがピンボールに費やした楽しさ

あなたがピンボール・マシーンから得るものは殆ど何もない。数値に置き換えられたプライドだけだ。
失うものは実にいっぱいある。歴代大統領の銅像が全部建てられるくらいの銅貨と、取り返すことのできぬ貴重な時間だ。
あなたがピンボール・マシンの前で孤独な消耗をつづけているあいだに、ある者はプルーストを読み続けているかもしれない。
またある者はドライブ・イン・シアターでガール・フレンドと『勇気ある追跡』を眺めながらヘビー・ペッティングに励んでいるかもしれない。

 ピンボールでもゲームでもブログでも得られるものは殆ど何もない。付き合うための手段でしかなかったハイスコアを抜くのための諸々が、目的そのもににすり変わるのは良い面も悪い面もあるし、ブログのPV至上主義との相似形も感じる。

「ハイスコ抜こーが華ちゃんに気がなきゃ意味ねーさ!!
「じゃあなんで井森さん達はハイスコ抜こうとしたんですか 無意味じゃないですか」
「無意味じゃないさ この一年 深町くんと一緒に遊んで 楽しかったよ」

 だけど、まぁ楽しい時間を過ごすのは無意味ではない。肩の力を抜いてフリップフラップ(軽く打つんだ)。